何と何を比べるか

 

暑いなぁ。汗だくで帰って引く時間がもったいないから水でシャワーを浴びる。熱を帯びた体はなかなか冷えてくれない。ままならない。

 

 

さておき。

 

変な夢を見た。夢は身体とか自覚的精神とある程度従属している。暑苦しかったり息苦しかったりすると夢はそういうものになるし。精神との繋がりは良く分からないけど。

 

登場人物は、実在の人物なのかどうか定かではない、色んな人が混じっている人達。覚えているのはそういう世界で僕はどこかに向かっていた。めちゃくちゃ速度が出る車とか、山の上かジェットコースターの如く下降するリフトとか。リフトに関しては、夢ですら回避していた。絶叫マシン苦手。そうしてその後「動物園」でもんちゃくがあるのだけど、動物は一切でてこなかった。扉がない壁に扉ができたり、誰か分からない人と一緒に行動していたり。なかなかスリリングだった。

 

結局僕は何処に行きたかったのだろう。

 

そうして、いつもの如く思考の話の前に現実の話という名の思考の話。

 

僕が現実世界に向いていないなって思うのは、利己的精神があんまり出てこないところ。自我の分析はまぁまぁ進んでいるけど、自分の自我にとって有用かっていう方向に向かわない。

 

自分が相手にこうして欲しいっていう素朴な衝動はなくもなかったけど、こういう自分が気持ち悪かった。これが自然だとするのか、自然に対抗するのかはともかくとして、これが自然だっていう観念は、本能に繋がっているとはいえ、教育の賜物という向きもあると思う。

 

自分の生存が確立してこそ、諸々の関係が生まれるのは確か。営みとはそういうものだと思う。でも、逆説的に言うと、その営みのために本能を補強する形で教育が行われたという気がしないでもない。自分を愛すことができない人は人のことも愛せないって言うけど、素朴な僕はそこに抗っている。

 

僕の肉がどこまで持つのかっていうことを素朴に想像している身からすると、愛って保護とか共同生活の外にあるのではと問題提起したくなる、奉仕も愛ではなくてただのエゴを相手が拾い上げた時の事象を愛とか優しさと呼ぶのではと。愛の為、優しくある為にする行為をそう呼ぶのはなんだか違う。

 

これは、僕がまともとされている関係性を構築できない欠陥品という証左なのだけど、これの対価はきちんと受け取っているから問題はない。都合の良い部分だけより集めることはできないし。

 

そういえば、思考のための思考はなんの意味もないっていうのを大御所の学者さんのbotで見かけた。思考は目的の為にあるものであって、目的の為の思考だけが生産性があるという説。確かに分かるけれど、僕の語彙では、これは試行になる。思考は現実的な自分と概念的な自分を繋げる非言語的な営みだから、現実的な衝動のために有効な方法を模索するのは、試行錯誤の問題では。

 

でも、目的と現実化の関係はやや難しいところがある。シュタイナーさんが言ったのだけど、人間の知覚内容とその理由の関係は因果関係ではなくて、逆転しているとのこと。例として、自分はこういう言動をしたという結果があるとする。で、結果があった後に、これこれの目的があったから自分はこういう行為をしたのだって自分を納得させるし、他人にもそう説明するということ。これは脳科学者さんの本でも出ていた。人間の脳にはそういう傾向がとか。

 

確かに、自分を翻ると、現実化したものに対して、どういう目的だったのかって考える段階がある。こういう影響を意図したものだろうなって自分のことが嫌だったり、なるほどそういうことかって我ことながら観察したり。だから、人が、私はあなたのことを思ってこういうことを言動したんだっていう説明はうさんくさくて仕方がない。あくまで目的は恣意的に設定できるものだから。好きだからっていう大義名分があろうがなかろうが、ここでは現実化が全て。

 

僕は、無目的な現実化が自由な行為だろうなと捉えている。

祈りとか。こういう視点で自分の過去を掘り返すとなかなか面白い。

 

そうして、仏教の死生観と他の本の死生観の対立の話。

 

仏教は無常への苦というところを読んだ。無常とは人間の実存というか肉体だろうと思っている、が死に向かう中で、どうしようもなくままならない感覚に対する嘆きの体感ということらしい。ここでは生と比が対比されている。自殺は生に対する忌避であって死への迎合ではないっていうのは著者の見解。

 

有為と無為の観念は面白いと思った。人間が創ったものと人間が創れないものの対比。時間は前者で空間は後者だとか。確かに時間は肉体のリズムに合わせて恣意的に区切っている。

 

そうして、他の死との対比は性らしい。これはこれで理由があって、生命の進化を根拠としていて説得力がある。曰く、単細胞生物は複製で自己を増殖していたから死はなかったけど、多細胞生物に進化して有性生殖をすることによって個体差が生まれることで多様性とともに死が生まれたって。

 

どっちが良いのかを選択するのは個人の問題。

 

僕はどういう風に死を捉えているかっていうと、また違う。遺伝子とか生殖より前に関係することで命の種は蒔かれてしまう。誰か他人の概念が自分に残っているっていうことは、当人の肉体が存続しているかどうかとは別に僕の中では生きている命。物理的な死の事実と、理念的な人の存在は、ずれているという捉え方。だから、僕の肉体が朽ちたとしても、誰かの中に概念としての自分が残っている限り、死にきれないということ。

 

おやすみなさい。