ほうれん草はなんとなく鉄の味がする。ブナシメジがそんな味と評した人も居たけれど、なんとなくは分かる。今朝のサラダうどんは、納豆、レタス、オクラ、ミニトマト、キュウリ。みょうがで、たれが麺つゆとごま油とおろししょうが。麺つゆは常備してないけど、顆粒出汁としょうゆと砂糖で代用できる。白だしは再現できないから常備したいけど、なかなか。

 

 

さておき。

 

言葉は織り物との表現があった。プラトンの時代からみたいから僕が知らなかっただけ。函よりはなんとなくしっくりくる。函と言えば、関数ももともとは函数だったらしい。なにかの数値を入れると、勝手に答えが出てくるブラックボックスみたいなイメージ。何か経験則だけしか判断基準がないことにも近いような。僕の中では蛇口をひねって水を出すみたいなイメージだけど。これで評価されるとたまったものじゃない。要は類似性だけ拾いあげて、新規の情報は付随でしかない。

 

言葉が織り物というは、言葉は色んなものが縒り合されてできているということ。確かに言葉の選択って、一個一個厳密に検証することはできないけど、なかなか複雑に絡み合っているような。哲学はこの絡み合ったものを解きほぐす試みというのもなんとなく良いなと思う。

 

ここに綴られている言葉は、色んな本を寄り合わせた僕のもの。

 

意識が運動だっていうのも面白い。ベルグソンさん。力動図式という考え方。あまり追えてないけど。何かに向かう力っていうのは良い。ベルグソンさんの著作は1つ持っていて既読だけど、興味を持ったのは読んだ後に美学をモチーフにした小説を読んだこと。森博嗣ではなない森さん。森が原風景にあるから森に惹かれるのだろうかと括るのも面白い。他の著者の羊と鋼の森も面白かった。

 

森さんを紹介してくれたのは、本の先生。なんだかんだ見つけられている気がしないでもないけど、ともかく。エドガーアランポーの短編をテーマにして展開する小説。作者の言だと主役で主観を語る女性は美の具体化、抽象化、どっちだっけ。

 

これもともかく。意識が運動だっていうのは、意識が受動的だっていう観念を転換する

ことになったのだろう。キリスト教圏内かどうかは知らないけど、圏内って、原罪論がはびこっているから、欲求と意識はキリスト教でも仏教でも連動されてそう。

 

でも、おそらく、その外にある意識の志向性を語っているのだと思う。

 

ここまでが「ことばと意味」の話。何年も前に買った本だけど、ここまで読み進めているのは初めて。他の本が読んできたからやっと読めるようになったと捉えている。

 

少し現実に戻って、表現の不自由展についてとか思ったけど、書こうとしたら拒絶反応があったから、省略。

 

仏教は現実的な世界観だけど、結局は肉体に隷属した考え方。時代も今よりもっと厳しかっただろうし、分からなくもないけど、正しさに偏重している。まぁいつの時代も人は正しいことに従いたいっていう傾向があるだろうから、この時代の正しさではあったのだろうなと。無常観は好き。ままならなさ観。

 

性食考は、ドグラマグラが出てきて楽しい。仏教関連で、美しい女体の死体がどんどん腐敗しているのを描写した図をもって欲求から解脱するというのがあるらしい。単純な性欲からの解放ではなくて、女体の美が醜になっていくみたいな諸々の縒り合せがあるのだと思う。

 

ただ、この文脈で言うと、精神は腐敗しないよなって。精神は死んでも腐臭はしないし、うじもわかない。イザナミは黄泉の国でうじがわいていた。この文脈で僕が次に旅行したいところが決まった。愛知県にある草薙の剣が祭られている神社。熱田神宮。鏡と勾玉は行ったから、三種の神器はあとここだけ。

 

そうして、目的とか衝動の話。シュタイナーさんのが割と現代的だと思った。感情の話で、快不快の細分化。結果に至らなかった不快と、結果に至ろうとした努力の快は別物とか、快も不快も、目的の任意的設定によるとか。

 

これって、確かに自分を独立的なものとして、他者は人ではないって捉えると正しい。けど、人が関わってくると、同じように相手も快不快があるのだから、自由の調整というややこしさが生じる。何処まで譲るか、何処を譲れないかって。シュタイナーさんは注意深くここを避けて語っているような。自分が相手と接していて快なのは、あくまで相手がその範囲で反応してくれているからかもしれないし、自分が相手に感じる不快は、相手が自分の観測した相手の範囲外が顕れることかもしれないし。

 

 

今日はここまでか。

 

おやすみなさい。