自分観

冒頭グロ注意。ご飯中に読んではいけない。

 

 

 

 

 

 

 

コバエが発生してしまったから対策を取っている。別に市販品で良かったのだけど売り切れだったから、民間対策として麺つゆトラップを使ってみている。麺つゆと洗剤と紙コップでできる。ただ、コバエにも個性がある。おちょくってくるやつも居るし、良く見ると交尾しながら飛んでいる奴もいるし(これは個性ではないような)。多分殺気は感じ取っていると思う。ということで、よくよく観察すると器がカラフルであることと水分があるだけ良いらしい。だから水と洗剤と暖色系の器で十分だった。

 

 

コバエは不快。この不快は、腐敗を想起させる黄泉の国のイザナミのうじたかり、、、まではいかないまでも同系統。そういえば、この不快を避けるために一番手っ取り早いのは、家で飲食をしないことだろう。不快の原因から全力で逃げる。次点が不快と感じないようにするで、その次が不快の発生源はどうしようもないからなるべく自衛するということ。

 

快不快の前に、そういえば蛆がたかっている光景って実際見たことあるなぁと思いだしてしまった。さすがに死骸ではないけど、死骸に匹敵するほどの穢れが付着しているもの。細かいのはやめとこう。書いていて気分が悪くなるおそれがある。

 

まぁ穢れというか汚さって、実際に汚いかどうかより、それに対する神話的イメージとか匂いとか印象とかかなり文化的なものだろう。

 

 

さておき。

 

もう少し綺麗な話へ。

 

見る夢で一番頻度が高いものはもう書いたけど、その次に多いのって、空を飛ぶ夢。これの原因は分かっている。実家は標高どれくらいか分からないけど、200メートルくらい?の地点にあって、上手く行けば霧の海が下に見えたりする。ではなくて、別に独立して高い山ではなくて、同じくらい高いところが周りにたくさんあって、谷の無効に知り合いの集落がった。大声を出すと聞こえる距離だけど、直線では向かえない。だから、ショートカットしたいなっていう素朴な願望から。だからイメージ的には、俯瞰的に飛ぶっていうより、滑空が近い。夢だといつも何かから逃げているような気がするけど。

 

 

ともあれ。

 

人生はプラスマイナスゼロみたいな話があるけれど、もう少し単純化して、快と不快を比べるのが人生なのかってシュタイナーさんが語っているところ。

 

個人的にはあんまり腑に落ちないけれど、これは僕の快不快の回路がバグっているからだろうな。例えば羞恥心は快なのか、ってこの基準では測れないと思う。快とときもあるし不快なときもある。

 

まぁここで言っている快不快はもっと人生の目的と繋がっている部分のこと。快は例えば社会的成功とかたくさんの人に認められることとか、なにか一般的にそれを得ている人は幸せなのだろうっていうところで、不快は不幸と対応している。例えば努力が報われないことが不快だとか。

 

対して、努力自体が快であって、この快は報われなかった不快とは対応していないと言っていたけど、結構な綺麗事に見える。そもそも人は快の為に生きているっていうのが間違ってないかと。結果のためのプロセスとしての努力であれば快を求めて不快を我慢するみたいな線は分かるけど、世の中のほとんどのことって、努力が報われるかどうかってって最後は縁とか運とかの問題なような。快不快で生きるのは分かるけど、これだと不快の方が多くなって、仏教観とも繋がるのだろうなと。

 

原始仏教という阿含経は、苦しみばかりが強調されている。どうしようも向き合わないといけないものばかりと言えばそうだけど、結局は、比べることによる苦しみがほとんどだと総括している。老いるっていうのは、過去の自分と今の自分を比べているし、他人に認められるっていうのは認められていない自分と比べている。そこから離れられないのが人間だっていうのは分からんでもない。

 

僕は自分の過去性も他人の人格も大事に尊重しているけど、比べるとかではないなぁというのが素朴な捉え方。全ては宝探し感覚。僕は自分の過去に対しても、今の自分より完全に劣っているとは思っていない。まぁまぁだいたい恥ずかしいやつだけど、もう一回採り入れ直す要素はいっぱいある。これは対自分だからではない。むしろ対自分が最小限の価値観ではなかろうか。自分の過去を卑下する人は、他人もそういう風に見る。

 

っていうところ考えると、やっぱり世界を変えるのは自分だっていう説が補強される。

 

自分をどういうものとするかっていうのが全てなんじゃないかなぁ。

 

 

って考えると、だいたいのことが腑に落ちそう。

 

僕は自分がどんどん楽しくなっている。これの極致って、相手がどう思おうが、自分が好きに振る舞えば良いし、相手が自分の都合良く振る舞ってくれないのも相手が好きにしているだけで、お互い自由だっていうこと。

 

もちろん素朴な1対1の関係の話だけど。

 

おしまい