最後の話

 

明日から6連休だというのに特に感情が盛り上がっていない。平常心よりもやや低い。まぁ帰り際に見た半月は綺麗だった。というのも、特にしたいことがないという。一応淀川の花火と、どうやら大学の同級生たちが集まる会があるけれど。したいことがないと予定がありそうなのは厳密には階層が違う。

 

 

さておいて。

 

低さの要素はもう1つある。何かが終わる予感。直観は僕にとっては現実味がある感覚なのだけど、予感は非現実で無根拠な癖に感情に影を落とす。でも、おそらく何かが終わるんだろう。何が終わるかまでは分からないけど。

 

終わりの予感があることと、したいことがないのは繋がっている。シュタイナーさんも多分ほとんどの人も、人の意志というものを大事にしている。ここでいう意志は、きっと結果を現実化させるための原動力なのだと思う。煩わしさとか努力という結果の為のコストを度外視するために必要なものが意志だとされているような。

 

一般的には分かる。でも、よくよく自己観察している人は分かると思うけど、直に動いているとき、本当に意志みたいな漠然とした原動力で動いたのかって捉えるのは外付けの基準なのではと。自分の成功を誇る人は、意志に基づいていたんだって後付けで語るだろうけど、もっと現実的な衝動の積み重ね。

 

これは意志ではなく信念の領域。信仰上の修行に近い。ただ、何かをするためには価値観を転換しなきゃならないし、そのためにはてっとり早い大義名分が大事なのだろう。皆寂しい。

 

あくまで僕の器の話だけど、何かを継続するために大義名分も衝動も要らない。あえて必要なものがあるとすれば、土台を整えてあげること。だから、一番大事な観念は「調整」。衝動は自由にさせて良いけど、この衝動は生活の外にあるべきもの。生活圏内の衝動は、対象をどうにかしたいところになるような気がするし。

 

これはシュタイナーさんとも繋がるのだけど、自分の尺度は自分でしかないっていうことに尽きる。本当に欲しているのであれば、勝手にやる。理由は後から言語化されるだけだから、言葉は縛りにしかならない。言葉はなくて概念か。

 

 

他の人はどうか知らないけど、僕は自分のことを概念と捉えている。だいたいは定義として捉えているような。この違いはなかなか致命的。確かに自己肯定感は大事。でも何事もメリットとデメリットがある。

 

定義で考える世界だと、人を否定的に評価することがまかり通る。対価が自己肯定だったりするし。概念だと自分のことすらわかってないから、他人を否定したところで何も返って来ない。

 

そうして冒頭に返ってくるのだけど、花火予定の元恋人さんは割とナチュラルに否定的言葉を僕に投げてくる。硯はこういうのが下手だから云々みたいな。これが嫌だっていうことから離れて考察すると、自己規定自体が否定的な言葉に囚われているのではって。正しさの観念も思考した結果ではなくて外付けが多いし。

 

大学集まりも、知覚内容から離れた内容がほとんどなくて、あんまり楽しくない。その中の1人の友人は1対1で話すと面白いのだけど、集団になると面白くない。

 

けど、なんだかんだ行けば楽しさを持って帰るのだけど、これって、僕がもともと含有している、どんなところでも面白さを見つける気質なだけであって、相手は関係ない。

 

これを実際会う人達が読んだら、きっと気分が悪いに違いない。だから言えないし、本来言葉にしてはいけないものだろう。

 

ここで思うことは、関係って人の思考を殺すものだろうなって。

 

 

僕は、こういう発話と無意識の間の言語化は好きだから、自分に対する観察文章あれば嬉々として読むし、それを揶揄するなんてこともないけど、そういう世界はきっとない。

 

人格を考察するより、当人にとって有用かどうかのほうがはるかに大事だろうけど、そういう視点で観察された僕は害ないけど有用でもないくらいな話。

 

そうして、シュタイナーさんに戻ってくる。曰く、自由とは自分の直感とか道徳的想像力に従うことだとしている。で、これって、自分が尺度は良いのだけど、この尺度は誰が決めたんだ。

 

んで、関係になったときどうなるか。自分の尺度で捉えるのが人間の最大限の自由だとすれば、自分以外の人は客体でしかない。この関係の寂しさを手当てする説明として、思考する人は同じところを根っことして宇宙と繋がっているんだっていってけど、いやいやって。

 

まぁ、関係したい人とは関係できないのは当たり前のこと。

 

 

おやすみなさい。