分裂

こぼれた水は何処に向かう。

 

 

なんだかこの時間のために生きているのか生きているからこの時間があるのかというのが分からなくなってきた。どっちでも良いけれど。この時間の意味は、一日単位のセーブポイント。別に読み返したり振り返ったりすることではなく自分の変化の記録。出来事の記録ではないなぁ。夏休みの自由研究みたい。朝顔の成長記録とかそんなの。観察の主体も客体も自分。おそらくこれができるのは人間だけ。

 

さておき。

 

今日の陰は濃かった。暑いけど、陰の濃さはなんだか好きだ。どう好きかを言語化するとおかずは用意したのにご飯を炊くのを忘れるという大失態。ご飯はコンビニでサラダ巻き。疲れているのか、そろそろガスが切れるのか、自分の器を観測する。もしかしたらお盆の連休は寝込むことになるかもとか。仕事は同期が敬ってくれた。何故だろうと思ったけど、そういえば昨日褒めたことのお返しかなと。割と対価に忠実なのだろうなと観測している。こうやって人の言動に対して意図を測ろうとするのは悪い癖だと自覚している。

 

でも、人の言動にはどういう文脈にせよ背景があるような。

 

言葉。

 

今日の夢は初めてな感じで面白かった。宇宙規模のSF。第1部は、衛星軌道上を回っているスペースシャトルに途中から乗り込む話。どういった技術かは知らないけど、もともと乗っている人も、1人だけが番をして、他の人は地上に降りたりしていた。面白かったのは、軌道上を回っているときのスリル。ちょっと何かにぶつかったら死ぬし。内側からでも何か物を外してしまったら死ぬみたいな。無重力に関する知識のなさが露呈するけど、景色が楽しかった。第2部は月。母親と妹と旅行に行ったのだけど、開発され過ぎていて月っぽさは全くないのに、なぜか月だと分かる。電車も走っていた。

 

全然体感を描写しきれていないけど、言葉とはこんなもの。

 

言葉。

 

なんで宇宙規模の夢が出てきたのだろうと考える。今までなかったことの背景はって。で、原因としては、寝る前のお祈りだろうなと。メインのお祈りのおまけとして、ついでに祈っている言葉。

 

僕以外の全宇宙が幸せでありますように。

 

これは卑下でもなんでもなくて、僕は幸せという状態を求めていないけど、しんどいを包むのは幸せかなという凄くざっくりして祈っているというだけ。宇宙に幸せという観念があるのかというのも知ったことではない。

 

夢の話ではなくて、ここから抽出した現実的な感覚の方が大事。

 

言葉の影響って、他人からの言葉ではなくて、自分の言葉の方が強いのではないかという仮説。自分の言葉には、自己評価とか思考も含まれるけど、一番は自分が他人に投げる言葉なのかもなと。

 

自分の発話は他人に指示しているようで、本当は自分を指示する言葉なのでは。これって確か心理学か脳科学の臨床結果でもあったような気がするけど、他人を否定する言葉を発話したとき、脳は主語を分類できないから自分が否定されたと捉えるみたいなやつ。

 

つまり、他人を否定する言葉とか攻撃する言葉とかネガティブな言葉は、表層では変化がなくても、深層では自傷他害になっているということ。

 

ではポジティブは違うのかってなると整合性が取れないから、きっと変わらない。

 

だったら、祈りは自分の為にするものだということになる。感謝もそう。こういう言葉では現象は変えられない。変えようとして遣うなら効果はなさげだけど、それでも当人を変える効果は深層にはあるかもしれない。現象を変えることがない祈りって科学的な世界の現代人にはできないだろうけど、科学的な観測にどれほどの権威があるのだろうって思っている。ごく個人的な視点からして。

 

そうしてシュタイナーさんがやってくる。類型論は人が自由になる前段階に過ぎないらしい。人は類型の中で生きているけど、結局最終的に尺度になるのは自分だって。判断基準を類型論で留めているのはまだまだ拙いとか。やっと他人がでてきて。他人を理解しようとするときは、自分の概念から離れて観測するべし。

 

自分のものさしで他人を判断しないことができる人って、ほとんど存在しない都市伝説レベルの存在ではなかろうか。

 

今日はここまで。

おやすみなさい。