魂の進化なんてものがほんとにあるのか

人は相手の瞳に反射した自分しか観測できない。

 

大学の同期のグループラインで硯は無理なのかというのが流れている模様。未読スルーとかほとんどしないのだけど、返すネルギーを感じない。外部的にも次の日仕事だから、悪酔いしてめんどくさいことになるのは目に見えている。楽しくないときの方が酔うような。知らんけど。そうして、休みだったら9連休になっていたけどしなかった今の職場に感謝している。このままスルーしてもなんの問題もないし、今回はパスって明言するのも良いし、あとは自分で決めるだけ。

 

というか、ラインが稼働している関係がほとんどない。1つは母親とツムツムでハートを交換し合っている。ツムツムも随分遠のいているけど。

 

 

さておき。

 

今日も一日ごちそうさまでした。朝は蕎麦、昼はカレー、夜はゴーヤチャンプルー。蕎麦は茹でて麺つゆ作っただけ。カレーは、ご飯を炊くのもさぼった。やたらと辛いのが食べたくてコンビニで20LEEっていうのを食べてみた。もともと辛いのそんなに強くないのにそんな気分だったから。確かに凄く辛い。汗だくで食べた。味覚上辛味というものはなくて、痛覚が流用されているらしい。痛くても吸収したいっていう衝動は分からなくもない。しかも無意識というのがなかなか凄い。僕は自覚的だから時々で良いけど、痛覚に対する快感もストレートな快感と近いところがあるのだろうなぁ。僕は腕とかギリギリまで噛みたいし噛まれたい(黙ろうか

 

ゴーヤチャンプルーはちゃんと作った。ゴーヤは塩で揉んでしっかり時間をおいて、豆腐は何重にもクッキングペーパー巻いて水抜きして。大阪ではオリジナルは作れないって沖縄出身の人が言っていた。それより前でこの料理にはやや思い入れがある。まず母親が作ったの最初。やたらと苦くて食べるの大変だった。そこから数年後、姉が振る舞ったときにはあまり苦みを感じなくて、姉は自分の料理の腕の方が高いって誇っていたけど、たぶんビールが飲めるようになった後だから、苦みに対する耐性か下処理の長さに過ぎないように思う。

今日は塩もみしてお風呂読書で1時間以上置いたけど、それでも苦いことは変わらない。

 

苦味はもともと食べ物が腐っているかどうかを識別するための機能だったろうに、良薬口に苦しになってから、地位が改善した味覚。薬が苦いはどういう理由なのだろう。

 

 

ともあれ。

 

ごちそうさまは物理的なものだけではない。

 

どうしても読みたいと衝動した刑法の本のために生活圏のぎりぎり外延のやや大きな本屋に行った。こういう方向ではすぐ体が動く。でも見つからなかったから、もう少し遠出しなきゃならない。でも、こうやって欲した衝動が本当に正解なのか分からないけど。こういう文脈の衝動は自分を固定化したものだから、瞬間から離れたときに本当に美味しいかどうかは分からない。

 

でも、収穫はあった。シュタイナーさん。

「いかにして超感覚世界の認識を獲得するか」

 

いかにもスピリチュアルだけど、そういえば、シュタイナーさんを知ったのはそういう文脈のブログだったなと。当時は結構面白かったけど、今はそうでもない。世界に対して悲観的だから。

 

自由論の方もよくよくみれば、宇宙と人の本質は繋がっているっていう流れだったから、普通にスピリチュアルなのか。全然意識していなかった。

 

今読んでいる本は、高次の世界に至るためにはっていう魂の進化の話なのだけど、素朴に分かるし、今のところ結構実践しているようなって。

 

別に人のオーラが視覚化したりはしないし、何か凄い能力がある訳ではない。シュタイナーさん的には霊的修行で高次元のところに生活できるってことだけど、僕としてはそれほどそこに至ることが素晴らしいとも思えない。

 

でも、面白いなって読んだのがいくつか。

 

1つは、神秘に辿りついた人は、自分が人に影響をしないように努めなきゃならないっていうフレーズ。僕は全然そういう領域に居る人ではないけど、なんとなく分かってしまう。世界を尊重するなら、自分が世界に関わることはなるべく避けたい。出発点があさってなのにたまたま一致してしまったという。

 

あとは、自分の感情さえも他人事としてみるみたいな趣旨のフレーズ。自分って人にとってどうしようも動かしがたい基準だけど、その基準を操作するという発想。

僕は自分が高次の世界に辿りついていると思ってないし、辿りついたところでどうなのだって思っている人。だけど、高次は自分の中にあるっていることだったら、分かる。まず、自分が搭載している概念がどれほどのものなのかって完全に把握している人はいない。何かに接した時に、想起される何かとか、瞬間的に言葉になる観念とかブラックボックスでしかなくない? 夢も同じ文脈で良い。

 

高次の世界に至るのは修行が必要だとのこと。まずは畏敬の念がないとどうしようもないとか。これは宝探し観念と変わらない。割としっくりきたのは、世界を否定したり批判したりすることによって魂の幅が狭まるというフレーズ。これは素朴に真理だと思う。言葉が自分に返ってくるっていう意味でも、何かを批判することで、自分がその程度の器だっていう自己規定が塗り重ねられる。

 

ところで、僕の姓名診断だと教える人に向いているらしい。教えることが禁忌なのにそういう適性なのは面白い。

 

あと、自分に潜る時間が必要だそうな。僕はそれを文章で公開しているから、顕示欲とかが起こらないのだと思う。つまり、ここは本来言語されてはいけない、僕の内側の世界の話。

 

一番面白いと思ったのは、自分のことも他人のように観測できないというフレーズ。よくやっているし現在進行形だわ。他人への想像力は結構働くけど、そういう想像力はあくまで自分が基準とされた他人っていう客観。これを、自分への想像力として転換することはなかなかできない。自分が他人からどう観測されているかっていうは、近しい関係になるほど難しいし、自分の強い感情を他人事的に観測するのは、修行が必要なのは分かる。

 

僕は修行した訳ではないけど、生きていることが修行みたいに生きているから、観測できる。

 

例えば、今僕の中にある感情で一番強いのは恋愛感情。で、この感情が芽生えたのは無理もないなって思う。論理ではないけど、自分は一番観測している人だから、傾向も把握している。

 

何が無理もないのかって、相手はほとんど関係ない。僕の中身の言葉を許容してくれる人が初めてだったというところにある。初めては言い過ぎか。相手の様子をみてどうこう調整できるのは衝動ではない。

 

僕がそう思える人であることの方が大事。言葉も好きだし可愛いし、器も厳密には好みじゃないように思えるに全部可愛いし触りたい。でも、この自分の感情を俯瞰すると、只の一方通行でしかないから何もサインがない限りこのエネルギーで突っ走る訳にはいかない。

 

 

食に関する本を読んでいると昔ばなしの食と性と死に繋がりとここは繋がっているような

気がする。関係の本質は相手を食べること。恋愛感情は食べたいし食べられたいということ。

 

 

人を動かすエネルギーって、本当は自家発電だと思う。

 

 

ということでおしまい。

 

良い夢を。