何を信じるか

とんちんかん。

 

 

仕事はつつがなく。連休中に何か良いことでもあったのか同期が元気そうで良かったし、皆元気そうな感じ。僕の声はデフォルトが無感情だから、なんとなく違和感はあったけど、なんとでもなった。つつがなくなかったのは、弁当のおかずを蓋に盛ってしまったこと。蓋とおかずが入るものはだいたい同じ形で、違いは裏面にある支える小さい脚みたいなもの。注意力不足。もう1つあったけど、なかなか抜けている。

 

ただ、こんなことは自分に返ってくるだけのものだからどうでも良い。

 

 

さておき。

 

色々考えていくと、自分の思考を文字化する意義がほとんどなくなっていく。

最終的にこれで良いのかしら。

 

文字化しなくなる傾向は、引きこもりもあるけれど、文字が多すぎて拾いきれないという側面もある。

 

そんなこともどうでも良く、書くのは書く。

 

心は何故腰痛を選ぶのか、は、そういう人は分かるけど、全く共感はできない記述が続いている。憤怒がどうやって蓄積するのかっていう話だったけど、完璧主義とか、善人であるべきとか、満足とか、これって無意識といえばそうだけど、どれも外付けの観念だろうって。

 

これは当人にとっては不遇なのだろうけど、昨日の日記からすれば、一種の輪廻ではある。血液型診断と同じ文脈であなたはこういう人物であるっていう外からの評価を自己とする観念。

 

児童虐待を受けた人っていうのも確かに酷い経験だと思うけど、問題は当人の人格ではなくて、そういう異端の経験を受けた人を受容ではなく忌避する社会にあるような。まぁ、確かに一般論的に言えば、分からんけど、個人的関係においてそういうことを開陳されるのであれば、寄り添える。けど、寄り添ったから何か変わる訳でもない。

 

無意識下において憤怒が一番強い感情であるっていうことがなかなか納得しがたい。まぁ、慢性的な痛みを創出するのが憤怒であるっていう限定だから、それなら分からんではない。僕の肩こりは痛くない。触れば痛いけど、これくらいの痛みだったらむしろ気持ち良いくらい。

 

 

なんで楽しめないのかっていうのも、楽しむのは不謹慎だっていう傾向がきっとある。

 

結論として、痛みは自分が抑圧されているという面もあるだろうけど、自分を抑圧しているっていう面もあるし、本当に自分が抑圧しているのかっているところまで考えると面白い(不謹慎)。

 

自分が自分を抑圧することなんて、ほとんどない。自制はあるけど、自制と抑圧の違いくらいは分かるでしょう?

 

つぶやき場の話だけど、モテない人というかパートナーが出来ない人に対して、モテモテの女子大生が、モテなくても自分の価値は変わらないから、モテることに価値を置かなくても良いんだよって言っていた。

 

僕も同じようなことは考えているのだけど、この発言がグロテスクなのは、この発言が、モテない人の為ではなくて、自分に言い寄ってくるなよっていう自己都合のメッセージ性しかないところ。

 

モテるのもしんどいんだっていうのも、やや分からんでもないけど、主人公的な考え方だろうなぁって。自己観と他人を比べれば、圧倒的に自己観の方が主人公だけど、悲劇の主人公感を発散するのはどうも。

 

グロテスクと評したけど、本当は可愛そうみたいなところはある。自分の言葉をそうやって

 

あれ、僕の日記もそういう方向があるのかしらと思ったけど、同情も共感もなんのエネルギーにもならないように書いているつもり。

 

思考じゃなくて、感情のスケッチ。

で、感情がここまで他責的な人とは関わってはいけない。

 

 

感情は他人がどうこうの話じゃない。他人がこうしてくれないからこうしてくれるからで自分の感情を決めるのは、他人でない。

 

 

そう、だから僕は自分の文章も思考も全然公開できない。なんでだっけ。ああそうか、これを読んだ人は自分が僕からそういう風に見られていると思い込んでしまうからか。

 

単なる内省でしかない。

 

とかいいつつ、相手の観念に依存しながら書いているところは否めないという。

 

この自己矛盾はどう整合性を取れば良いのだろう。

 

 

 

一番楽なのは、自分の個別な感情論に整合性はなくて、自己観の枠の中であればどれだけ矛盾があっても自分だから大丈夫という捉え方。これは真理だけど、これを他人にもこういう風に捉えろよと言い出すとおかしいことになる。

 

今日はここまでかな。

 

 

総括。生きる価値なんてどうでも良い。

 

 

おしまい。