投げっぱなしブーメラン

雨はこころをそわそわさせる。

 

 

激しいタイミングで買い物に行ったのだけど、雨もとい水の流れは美しい。舗装して間がない道路の表面ではなにやら水泡のようなしゅわしゅわがあるし、側溝に流れ込む破壊的な非日常。詰まった淀みもそのうち理不尽に洗い流されるのも清々しい。財布持ってなかったらそのままシャワー浴びながら帰りたかったくらい。

 

人の営みも浮き彫りになる。生活を構築した物質は、晴れの日も雨の日も想定していて、どちらにも強くなければならない。治水の歴史を垣間見る。雨が隠喩するのは時間の流れ。

 

世界がどう見えるのかも無意識からの浮上なのかな。

 

 

ともあれ、そわそわの話。

 

雨が想起するもの。僕固有なのかもしれないけど、最初の雨の記憶って、言いようもない不安感だった。どういう状況だったかは定かではないけど、カーテンの隙間から1人で雨を眺めている光景。二歳間隔で姉と妹がいるし、家族が周りにいないっていうタイミングも幼少期にはあんまり考えられないのでけど、小学校低学年くらいのことだったと思う。庭の土も、雨の流れで形を変える。屋根の構造で水たまりがいくつもできて、観察するのは楽しかったな。と、またズレた。

 

無意識から来る感情を遡ると、自分が自分であることに対する疑義だって昨日書いたけど、もっと遡った本当の感情の源泉って、素朴な寂しさなのかなと今日ふと思った。寂しいから満たされた時に嬉しいし、寂しさ満足してくれない世界に対して怒るし、みたいな。

 

自分が世界でひとりぼっちであることが感情の全てなのでは。

 

ということは、感情は全て自分対世界で発生するもの。

ただ、寂しくないことを世界に要求しだすと、なかなか大変になる。どんな依存症よりきついはず。

 

 

って考えていくと、自分の感情分析も捗る。本当にそんな感情あって良いのかっていう世界の観測では起こるべくもない感情が自分の本質として浮き上がってくる。

 

ところで。

自業自得という言葉がある。これはもともと仏教の言葉らしい。業は行為を差すらしい。現代の語用だと否定的な言葉だけど、もちろんプラスの行為でも同じこと。ただ、否定的な意味合いになるのも分かる。利己的な行為は、基本的に誰かを害するものであって、応報的な意味合いにしないといけない世の中なのだろうって。

 

シュタイナーさんの神秘学もおそらく東洋宗教学が入ってきているのだろうけど、輪廻転生という言葉が出てきた。僕は輪廻転生とか前世とか来世みたいな考え方は嫌だ。なんでかていうと、この自分がそんなに長続いていくのがどうしようもなく嫌。

 

自分が生きていて良いのかって定期的に思想に登って来なきゃならない人格なんて、どの時代においてもおかしいから、ここだけでいい。

 

ただ、輪廻とか業の循環の考え方はそこだけ取り上げると好き。

 

これって、資本主義的な考え方を真っ向から否定するもの。約束に法的拘束力を付けて、ピンポイントの関係において対価関係であるべしっていう思想ではなくて、悪意を投げたら違うところから返ってくるし、善意を投げることは投げっぱなしでいい。

 

もっと広げると、自分の悪意も誰かから投げられたものだし、善意だって自分の根っこから出てきたものではないっていう他人事になる。

 

これと無意識意識の整合性をどう取るのかといったら、どっちが多いかとどっちに重きを置いたか。普通に考えて、悪意の方が圧倒的に多い。なんでかって、善意が多かったらとっくに世界は平和だろうから。という中で、悪意の輪廻に組み込まれるか、善意の輪に加われるかどうかって、その人の意志というか選択次第でしかない。

 

善意の輪ったって、別に良いことが返ってくる世界ではなくて、受け取ったバトンをどう投げるかというだけ。返ってくるかどうかじゃない。

 

 

なんか兄妹皆成人した後一回だけ家で飲んだことを思いだした。母親は愛が足りなかったのだって姉も妹も言っていて、僕は優遇されていたっていう説だったけど、本当にそうなのかって。人の性質として、欲しがり過ぎる人には与えたくないだろうし、今思い返しても、母親は母親の人格のギリギリを消費して子供達を愛していたと思うから、恨むのはお角違いではって思っている。姉も妹も子供がいるから、この不満はきっと子供達から返ってくるのだろうなと思うと輪廻転生感はあるなと。

 

 

そうして、僕の人間関係の楽になりまくっている現在進行形は、人間関係を切って感情が出てこなくなったからだって思ったけど、そうじゃなくて、まず自分がどうなのかっていうスタンスを確率するための時間なのだろうなと。

 

基本的に甘っちょろいから、好きでもない関係でも自分を譲る。

 

これは論理的に当たり前で、自分自身に他人より価値があると思えないという心根があるから。ただ、他人が見ている自分像は、自己像のカゲでしかないという思考が実感になればどうでも良くなりそうっていう予感はある。

 

自己肯定感とは無関係に、自分のことをどうで良いと思っている人の無駄な善意は切り捨てるみたいな。今の職場の人たち何故か知らないけどそんな緊張感があって面白い。

 

自己像ですら本当の自分からすればカゲなのに、そんなことに囚われるのは煩わしい。

 

自分が生きる目的とか価値も、結局は自分が勝手に決めれば良いってなると、

 

はい、時間かけ過ぎた。

 

おしまい。