内付け

桜の木の下には屍体が眠るというなら、自分の下には。

 

 

休みが多いと自分の料理に飽きてくる。味付けを変えても思想が同じだからなかなか。パスタも常備した方が良いのか。自家発電の簡略版みたいなところなどうも。全ては程度問題だけど。

 

パンプキンシザーズ面白い。主要人物は人というより何かの象徴みたいに感じるけど、アニメが好きだったから漫画を読み返している。正義とか恐怖とかシステムの末端とか。

 

さておき。

 

自分の人との関係におけるグロテスクさを考察している。

文字化するのが大変だから、少し別の話。

 

僕はなんだかんだ10年くらい司法試験の勉強をしていることにしているから、面接とか人と接するときに何でそこまで法律に執着しているのだという趣旨で自己紹介しないといけないことが多い。やんわり下位互換の資格試験を受けて興味が沸いたからってわかり易いストーリーにしているけど、本当は執着なんてほぼない。あるとすれば修習という名の研修で何をしているのだろうという興味とか諸々。取れたらうれしく思う人は居るだろうなとは思うけど、そんなのはついででしかない。

 

ざるで濾した後でもやはり法を収集することがなくならないのは、ここに流れる精神が恣意的だとしても優しいところ。だいたいの人にはわからないだろうけど、要は、当事者じゃなくても、当事者を思い至れるぎりぎり接近できる基準。いつも言っている気がするけど、同情が嫌いなのは、自分を当事者として端役への感情の施しみたいな面があるから。

 

その人の痛みも苦しみもその人のものでしかない。けど、同情はやすやすとこの境界線を越える。自分の内側からの訴えも希釈化してしまうのが同情。声を上げて同じような経験を経ている人が増えれば自分の痛みも慰撫されると思い込んでいる人が現代では増えているけど、同じようなデータが増えれば増えるほど自分が薄くなることには気づかない。意識が薄くした憤怒は無意識が痛みとするのかしら。

 

ともあれ、法の本質、特に刑法だとすれば、第三者が当事者の生き死にを決めなきゃならないところ。可愛そうでは済まされない。

 

つまり、第三者として、どれだけ他人に共鳴できるかという話。

 

当事者から離れた時にどれだけ自分の資源を割けるのかというだけ。人は自分が当事者である時だけ強く発言できる。これって子供のためとかっていうのも同じ。自分が属している当時者観念。

 

そうして、僕が法律を教えるなら、最初に持ってくるのは不法行為の制度だろうなって空想する。結構分かりやすいと思う。賠償責任という効果ではなく要件論は半端な道徳論よりすっきりする。人を傷つけたときわざとであろうがうっかりであろうが人のこれを害することには責任が生じる。

 

この線引きができない人が、自分の不安さえ他人ないし社会のせいだっていう感覚で訴える。僕はこの辺り良く分からないのが、自分が他人にその曖昧さで訴えられたとき、ちゃんと謝ることができるのかというところ。世界がなんとも主人公。

 

当事者じゃない思考って、自分の経験を掘り下げても獲得できると思うのだけど、これができない人がほとんどだっていうことは教育の敗北じゃなくて、社会が皆独りよがりだった弊害でしかない。皆が助けあっていた古き良き時代も、別に自発的にやっていた訳ではなくて、そういう社会規範だったっていうだけというのがほとんど。

 

例えば、自分を肯定的に評してくれた人はありがたいで良いけど、否定的搾取的な人は何でそうだったのかと想像するとか。自分がそういう風に接した相手は皆無だったのかのかとか。

 

 

年を取ると過去と未来のバランスに置いて、過去が重くなるからうんたらかんたらみたいな説もあるけれど、この観念も平均寿命から算出されたものでしかないし、経験を重くしているのも自分の過去から学ぶものはないっていう決めつけでしかない。

 

僕は記憶には再現性がないと思っていて、自分が思い返した記憶がオリジナルの現実ではないと思う人。だから、他人が再現した記憶がどれだけ事実なのかっていうのも第三者としては分からないというスタンス。ただ、記憶の色付けをしたのはその人だから、どういう人格傾向にあるのかっているのは見える、というだけ。

 

他人の本質なんて分からないというものさしが絶対的な前提。

 

ただ、対自分っていう関係に限定すると、ある程度コントールはできそうな気がしないでもない。自分がどうしたいかより相手がどうしたいかを見るようにすれば、なんとなく感じる。

 

 

 

ともあれ。

 

個人的に、当事者的なエネルギーの外にある無限ぽい動力源が気になっている。

 

例えば、日記を毎日2000文字くらい書いているけどこれは想い人(この表現好き)の歓心を買うみたいな原動力では全くない。本当に現実的に好かれるための方策であれば、違う方法論を採っているはず。はずって言うは本当にやりそうだから。グロテスク。

 

じゃあなんなんだっていうと、最終的にはただするで、動機に何か言葉で色付けすることはできない。

 

仮に好意だとしても、好意だけで継続することはできない訳で。

普通は継続には義務が伴う。

 

だから、僕は、他人から見た自分が類型的に収まらないことが分かる。僕がこれをやってもらったら鼻血出そう。時々あるけど、これをされたときの感覚って嬉しいじゃなくて驚きでしかない。それをされたから好きになるとかという話ではない。

 

 

そうして。

 

これに答えっぽいことを提示してくれたのが、神秘学とはシュタイナーさん。

 

風の試練というらしいけど、なんの後ろ盾もないところでどう行動するかは自分で選択するしかなくなるとのこと。自分が世の中にあるすべての基準から独立した言動を選ぶとき、その責任は自分しか負えないから、そんなことを選ぶのは一般的に修行しないと無理なのだろうなと。

 

別に高次の霊界なんて知ったことではないし、心霊現象も分からないけど、人が起こす波くらいは分かる。そうして、この本の高次の霊界に至った自分が楽だと思ったのが、世界に役立てる叡智を得て、それで生きていくのだというところ。結局俗世とあんまり変わらないのかいって。何かのために生きることを意味にする限り、生物から離れられてない。

 

まぁ、そんなものだっていう結論もいい。

 

でも、僕の実感として、なんだかわからない無根拠なエネルギーの方が動機を必要とするより遥かに強いと観測している。自分の無根拠の経験を取り上げてないのか、無根拠も根拠で秩序付けないといけないのか分からないけど。

 

んまぁ、ここから先は、新しい洞察の世界だけど。

 

おやすみなさい。