使い切り

 

今日も何も用意していない。どうなるかしら。

 

 

今日も何か夢を夢を見ていたような気がするけど、忘れた。忘れたというかなんだか同じようなものばかり見ているから封印しているのか。

 

あんまり現実に生きていない気がするけど、傾向としては悪くない気がする。まぁ、そもそも現実とはみたいなことを考えていないと、昨日の日記のようなことは書けないから。

 

超感覚的世界の本はあとがきに入った。所々分からないと感じるのだけど、やっぱり、境地として自分は近いところに居るのだろうなと。分からないのは守護霊とか、超感覚的世界が修行していたら具象化するのだっていうところ。分かるのは、自分を磨けば、世界の見え方が変わるとか、勝手に世界に対する感謝の念が生まれるところ。一番は、感覚的な世界から離れた思考をできるかどうか。

 

世界の見え方。

これは、超感覚的世界というより、類は友を呼ぶみたいなもっと素朴な階層論だと思う。でも、こういうのも魂の階層の話から見ればスピリチュアル的ではある。でも、俯瞰で考えると、これだけ移動の自由も転職の自由も何を検索するかの自由がある中、自分の世界を決めるのは自分でしかないのではという感はある。そもそも、1人の人生で接することができる人の数なんて多くても全人口からしたらたかが知れているから、一般論でざるに個人を判断する人と接していると時間がもったいない。

 

少なくとも、世界の美しさに無頓着な人は放っておいて良いのでは。

どう考えても感覚器官がそぐわない人と番になるのは遺伝子の傾向なのかしら。

 

感謝の念は、かなり個人的な領域だから省略。

これは、そういう風にならないと分からない。ただ、これが立派なのだってシュタイナーさんのようには言えない。何を世界に返したら良いんだろうとは思っているけど。

 

 

 

感覚的な世界から離れた思考。

 

これってともすればただの空想癖みたいに見えるけど、僕はもともと考え事なんてしている人ではなかった。現実とは離れて考えてはいけないみたいな規範もあったし。現実の根が育ってきたからできていること。

 

これも説明するのは難しいのだけど、自分に根差しているけど自分とは独立している思考。

別に自分の感情とか素朴な自分を肯定してもらいたいがために書く訳ではない。似て非なるものに、前感覚的観念があるらしいけど、これは昨日書いた、正しいにかこつけて自分の感情をどれだけ顕示するかっていうかなり低次のふるまいのことだろうなと。

 

低次とか高次っていう語感で見下しているとかのニュアンスがあるけど、本当は低いとか

高いとかではなくて、単に、生きている次元が違うだけという意味でしかない。同じ言語を使用していても、異星人くらいに離れている。

 

こういう人たちが自分の加害性に気付くためにはどうしたら良いのだろうとは思う。はた迷惑だから、じゃなくて、当人にとってどれだけ地獄なのかっていう意味で。自覚ができればある程度はなんとかなる。まぁ余計なお世話だけども。

 

まぁ何が人の地雷になるかなんて分からないし、不毛な試みだけど。

 

そうして、どれだけ理屈が上手い人でも、自分の感覚世界から離れた思考ができている人はあまり見かけない。僕の観測圏内だと、森博嗣さんくらい。時代を問わなければ過去にはたくさん居る。シュタイナーさんは思考の中身を書いてないからなんとも言えない。まぁ面白いかどうかはまた別の話だけど。これも、別に離れた思考ができることが優れている訳ではない、念のため。ここまでくると相対的ではないので。

 

 

そういえば、昨日の日記で、感受性の対義語として感能性って言葉をしれっと造語したけど、感受性っていう、感覚的に世界を捉えるアンテナという言葉の反対の言葉がないのかを考えるとやや面白い。多分自分の感情は当たり前だから、それを捉える力なんて皆が備えていて当たり前で、対応する言葉がない。自分の感情を伝えることは表現力に含まれているし、そもそも喜怒哀楽が伝播だろうし。

 

最終的に、僕は自分の感情はいちいち発掘しないと良く分からないのだけど、なんで好意をもったのだろうと考察すると、その人の一番柔らかそうなところが好ましくて、ひるがすと、自分の一番柔らかいところは、、まぁ良いか。

 

 

おしまい。

 

皆さん良い夢を。