いまここ

 

夏と秋の間はあんまり花が咲いていないと思っていたけど、そんなことはなかった。サルスベリの花は始まりに過ぎなかったのかも。もはや気温はともかく自然は秋になってきているだけかもしれないけど。そうして、気になっている花がある。うちの隣にある畑からはみ出ている、ネギ状の植物の花。この畑、青紫蘇がはみ出している季節もあるから、変な衝動に駆られる。さすがに行動に移さないけど。

 

この植物も、食べてみたら分かりそう。ねぎではなくて、実家ではノビルと呼んでいた食材ではなかろうかと。硫化アリル感はあんまりなかった気がする。もといもとい刺激的な辛み。なんだか同じような味のものを大阪に来てから食べた気がするけど、名称を失念した。

 

さておき。

 

 

呟きを見ていて、好ましい人が元気そうなのは精神衛生上とても良いなと思った。

ここでのポイントは元気ではなく、元気「そう」というあやふやで構わないというところ。誰かが元気であるかどうかの確証なんて誰にも分からないし、まず自分を内省して自分が元気であるかって断言できることなんてあんまりない。つまり、元気という言葉自体が印象みたいな、観察した後の評価みたいな話。

 

ただ、元気そうな状態を捉えて気分が良くなる自分は外ではない。何かエネルギーを貰っている気分になるし、この前の脱力感の時と比べると重力が随分違う。どちらにせよほぼ同じようには動くのだけど、動くために消費しているように感じるエネルギーが違う。

 

精神エネルギーはカロリーと同じく蓄えたり消費したりするものではないけど、なんとなく繋がっている。

 

で、需要側の視点だけで見るのは正しくないから、これを1つ翻してみる。と、僕が元気そうに振舞うだけで、何か体が軽くなる人も居るのではないかと。居ないかもしれないけどそれはともかく、このエネルギー交換は利己的でも利他的でもないエコエネルギーなのに、人の中身を救う。

 

嬉しいっていう言葉はこの領域に生息している言葉かもしれないな。

 

という永久機関のことを考えた。

ってことは、自分に対しても元気そうに振舞ることで、軽くなるということではって。

 

ただ、この境地は前向きとかポジティブとか言われていている一般的な元気とは似て非なるもの。これだと結局のところ逆の方向への逃避でしかない。来世では良いことあるよーみたいな。これでは体は軽くならない訳で。

 

楽観思想が馴染める人は問題ないけど、元気がない人はまさに今この瞬間抱えていることが問題だから、未来なんてどうでも良い。

 

元気そうは、今の問題を受け止めた後の話。

アドラー心理学っぽいのかな(この関係の書籍読んだことないけど。

 

私は私である。あなたはあなたである。

という下りはアドラーさんではなかったような。

 

「人は何故腰痛を選ぶのか」という本からもってくると、人の感情は当人に痛みをもたらさないっていうのが医学の定説らしいけど、素朴に自分を観察できる人は、自分の感情が自分の体に影響をもたらすことなんて当然に分かる。同じ睡眠時間でも寝起きの感覚が違うとか、同じ酒量でも酔い具合が違うとか。これは本当に肉体的疲労なのかって思わない?

 

感情っていうと喜怒哀楽みたいな、言葉で色づけることができるものに限定されるけど、そじゃなくて、気分とかもっと言語化できない、たまたま目についたものへの反応みたいなものでも揺らいでいる。この揺らぎに対する感度がそれぞれで違うだけで。感度が鈍い人は生きやすいけど、その分蓄積して、重篤な自体に陥るとか。

 

 

やれやれ。

 

 

何の話だっけ。

 

僕の場合に限定すると、僕が楽しめるようになったのは、自分に付属する旧来の関係をほとんど排除したからだけど、これは逆に言うと、人と人の間にあるエネルギーの効率を高める作用があったから。相手を固定化しようとする作用はおそらく人である限り不可避。固定化=安全だろうし。

 

 

そういえば、日向日陰の昨日の日記を視点とすると、やや矛盾に見えなくもない。

 

でも、人格は元気な方が見ていて楽しいけど、文章は本音の方が読んで楽しいっていう違いというだけ。言葉を相手じゃないもっと外に投げるときって、今に満足していたらなかなか難しくはなかろうかと。

 

最後。

 

と思ったけど、言葉切れっぽいから、おやすみなさい。

 

皆さんがほどほどに満たされますように!