ぶれぶれのせかい

昨日の日記はコピペを二重にしてしまって無駄にパラレルワールド感が出ている。わざとじゃないけど、それっぽい。

 

でもパラレルワールドはほんとにどこにでもあると思う。例えば、村上さんの小説のどれだか(ノルウェイの森かな)に、実家で可愛がっていた犬が死んだのを母親が教えてくれなかった数カ月の間は、主人公の中では生きていたというずれを認識して云々みたいなものがあった。

 

あと、人と人の関係で、何か新しい側面を発見して「意外」って表現することとか。これって、自分が思う相手の人格と相手の言動のズレで評している。「そうなんだ、知らなかった。」となるなら、別にパラレルではないけど。とりあえず経験側から暫定的な人格を想定しないと人と接するのは無理だから、暫定的であるうちでは問題ない。

 

ただ、これを、これを大雑把にこういう人はそういうものだって人格を決めつけると、想定外の言動が出てくると、意外を越えて反発になる。もっと行くと、経験則で嫌だった人と同じ言動を見かけただけで、その人はこういう人格だって攻撃しだす。こうなったら、パラレルではなく、もうどこに生きている人か分からない。認知の歪みって言葉を聞くけど、これってもはや生きている世界が交わらないところに在るのではと思う。

 

うん、物理的な世界は同じでも、全然交信できない世界というのは普通にある。

 

 

 

あと同一肉体間のズレも認識しづらいらしい。

「人は何故腰痛を選ぶのか」はほんと面白い。自分が思っている人格と、ほんとうの人格にずれがあると、体に慢性的な痛みが出て、その痛みの理由であるずれを認識することで脳が戦略を続行できなくなって痛みが解消するって。

 

人は自分すらずれている場合が多い。

まぁ自己像って暫定的な他己評価の集積だから、これがずれるのは当たり前な気もする。

 

数なのか強度なのかは微妙なところだけど、他己評価に全く影響を受けていない自己像はきっとほぼ無い。

 

ということで、やはり世界はパラレルパラレルじゃないかという説。

 

僕もそうだけど、パラレルを認識できるのは強み。

他己評価で意外だ意外だと言われまくってきたから、もう自分じゃないところで生きていたのだろうと自覚しているし、凄いも知ったこっちゃないし、良い人評価もどうでも良い。

 

良い人と評価されないように良いとされていることをするのはどうしたら良いのだろうはある。祈りはその1つか。

 

 

さておき。

 

物理的世界に戻って。

 

この前体温を移動させた人の平熱がやたらと低いと今日の交信で言っていて、体温の移動について考えていた。

 

精神世界の移動は温度を持たないけど、手を繋ぐと温度の移動がある。どちらの移動も心地良いけど、物理的世界で生きている以上、温度の移動の方が印象は重い。そういえば今日の夢もそんなんだった。全然知らないみたこともない人だったけど。

 

では、そもそも体温とはなんぞや。

 

僕は平熱がまぁまぁ高い方。末端は冷えることもあるけど、幼少期は祖父母に湯たんぽのようだと評されていた。体温はカロリー換算できるものだし、世の手を繋いでいるカップルも自分の熱量がどう移動しているかはそんなに気にしないと思う。

 

僕は手汗マンだけど、かくときとかかないときがあって、かかないときはぶれている自分じゃないとき。肉体的パブロフの犬

 

添い寝も好きなのだけど、最終的には離れて寝ることになる。

最近はそんな機会なぞないが。

 

で、これを分析すると、僕は体温の移動とか交換は好きだけど、混じり合ってしまうと嫌なのかなって。これは自分が返ってきているような感じが嫌なのか、単に暑いから嫌なのかは分からないけど。

 

 

何が気になって居るかって自分が分からないのだから文章化もできない訳だけど、物理的に場所を取るっていうのがキーワードなような気がする。

 

 

最後。

 

もう少し他人にてきとーで良いのかって思ってきた。他人の中の僕像はその人のものだから尊重しようと振る舞っていたけど、別に僕像がぶっこわれたところでその人の世界はなんも揺らがないわなと。これは他人を尊重しているようで自分を保守的に見ている感覚。

 

おしまい。