世界のずれ

 


今日は少しだけ活動的。夕方から活動して3時間くらいで、電車移動して掃除機とマウスポケット六今日は少しだけ活動的、夕方から活動して3時間くらいで、電車移動して掃除機とマウスポケット六法を買って、スーパーで買い物、クリーニングに出していたスラックス回収、帰ってきて、来週分のシャツをアイロンがけして、少し掃除機使ってみて、水を買い忘れたからコンビニに行って、お風呂溜めて弁当のおかず作って、は通常営業だけど。

掃除機は、現品限りの蚤の市みたいもので買った。なんとなく直感的に引かれた、ワインレッドの細長いやつ。ほんとは紙パック何を買えばいいですかとは聞いておきたかったけど、店員さんあんまり知らなさそうだったからやめておいた。メーカーの人も居なさそうだし。

軽くて良い。使い方はこれから仲良くなっていこう。

マウスはどっちでも良かったのだけど、蚤の市展示品限りだから梱包に15分くらいかかるって言われたから店内回っている時に思いついて買った。インターネットのWordのアイコンみたいな色の有線の小さいやつ。なかなか快適。文字を打つときにタッチパッドに触れてしまって画面が変わるのがめんどくさかったから。

まぁ、物は道具だから、特に執着はないのだけど。
と、言い出すと自分も結局自分の為の道具かなという話になる。随分と操作性が良くなっているけど、まだまだ物足りない。なんか矛盾に満ちたフレーズだけど、結局そういうものなのかなと。器と本質の未一致。

六法はこの前の間違えたやつではなく、ちゃんと新しいもの。令和2年度版。ゼミの教授が法律は条文が教科書で、専門書は参考書だって言っていたのを思い出す。今日は法律の話の回ではないから省略。

これを見てそういえば令和だったなって思う時間感覚について。これは個人的には結構性格な感覚だとしている。暦は何のためにあるかっていうと、共通項ないし統一化、あるいは指標。

暦っていう道具を発明した人はなかなか賢い。時間の感覚はそれぞれ誤差があるから、基準を作って皆それに帳尻を合わせようかって。弊害として、休日にどんどん時間が消費されていて無為に過ごしている感みたいな相対的罪悪感が芽生えるわけだけど。

自分の時間なんて自由に使えば良いとはなりにくい。


タイムマシンができないのはここ。
時間は人工的で恣意的な区分けでしかない。肉体が衰えて死んでいくっていうのも、自然で見れば、ただの循環のプロセスで、種で捉えたら、当たり前ではと、アリの巣とか。

あぁ、だから進化っていう観念が必要だったのか、ダーウィンさん。生物が進化するためには時間が大事って。数学に時間の観念を組み込むのもだいぶ時間がかかったらしい。


この話も前置きでしかなくて。

素朴なパラレルワールド理論。

今日、掃除機を選んでいるときに、母親から電話があった。僕が「心配」っていう言葉に違和感があるのはこの人が原因。心配しているのだから時々は連絡しろよって、なんか論理がおかしくないかと。

本当に元気でやっているのかなぁって心を配っているなら、生存確認できてよかったってことにならない? これを、自分が定期的に確認したいから連絡して欲しいって希望されるなら、まだ分かる。こっちが心配しているのだから定期連絡するのが当たり前だろうって観念が嫌でたまらない。貴方が私の行動を規定するなと。

これって、定期連絡したところで、相手にとってはうれしくともなんともないみたいだし。

まぁ単に表現の問題だっていうのは分かるけど、僕は心配っていう観念は好きとしも、貴方を心配しているって表現する人は好きくない。心を配るなら心に留めとけよって。心配って、たぶん、心を配っている状態を見た第三者が造った言葉だと思う。主観で使う言葉じゃない。

 

あと、素朴に自由を語るとき、自分ができないことに向いていると思うのだけど、自分が現在できていることには全然目が向かないのだろうなって。自分の不自由を前提とした自由なら、いつまでたっても自由にはならん。


ここで、並行世界が出てくる。

自分の主観では存在しないとしても、人間関係において個人は微妙に誤差がある世界で生きている。同じ経験をしても、同じく再現できるわけでもないし。ここを個性とか人それぞれと評すか、微妙にずれた並行世界とするかは自由だけど、僕は後者の方が適切だとしようかと今日思った。

絶対に話が通じなさそうな人は、自分が生きている世界からずれたところで生きていると考えた方が、気楽だからというだけ。


そうやって微妙にずれた世界を生きている中で、ずれが少ない人と交信できるのがこの世界なのだろうな。


やっぱり、すべての人が同じ世界で生きているみたいな唯物論には納得できない。
最小公約数みたいな話なのか(こんな概念ないけど。

結論。僕が好きだって感じた人は、ややずれている人達。

時間切れなのでおしまい。

 

 

法を買って、スーパーで買い物、クリーニングに出していたスラックス回収、帰ってきて、来週分のシャツをアイロンがけして、少し掃除機使ってみて、水を買い忘れたからコンビニに行って、お風呂溜めて弁当のおかず作って、は通常営業だけど。

掃除機は、現品限りの蚤の市みたいもので買った。なんとなく直感的に引かれた、ワインレッドの細長いやつ。ほんとは紙パック何を買えばいいですかとは聞いておきたかったけど、店員さんあんまり知らなさそうだったからやめておいた。メーカーの人も居なさそうだし。

軽くて良い。使い方はこれから仲良くなっていこう。

マウスはどっちでも良かったのだけど、蚤の市展示品限りだから梱包に15分くらいかかるって言われたから店内回っている時に思いついて買った。インターネットのWordのアイコンみたいな色の有線の小さいやつ。なかなか快適。文字を打つときにタッチパッドに触れてしまって画面が変わるのがめんどくさかったから。

まぁ、物は道具だから、特に執着はないのだけど。
と、言い出すと自分も結局自分の為の道具かなという話になる。随分と操作性が良くなっているけど、まだまだ物足りない。なんか矛盾に満ちたフレーズだけど、結局そういうものなのかなと。器と本質の未一致。

六法はこの前の間違えたやつではなく、ちゃんと新しいもの。令和2年度版。ゼミの教授が法律は条文が教科書で、専門書は参考書だって言っていたのを思い出す。今日は法律の話の回ではないから省略。

これを見てそういえば令和だったなって思う時間感覚について。これは個人的には結構性格な感覚だとしている。暦は何のためにあるかっていうと、共通項ないし統一化、あるいは指標。

暦っていう道具を発明した人はなかなか賢い。時間の感覚はそれぞれ誤差があるから、基準を作って皆それに帳尻を合わせようかって。弊害として、休日にどんどん時間が消費されていて無為に過ごしている感みたいな相対的罪悪感が芽生えるわけだけど。

自分の時間なんて自由に使えば良いとはなりにくい。


タイムマシンができないのはここ。
時間は人工的で恣意的な区分けでしかない。肉体が衰えて死んでいくっていうのも、自然で見れば、ただの循環のプロセスで、種で捉えたら、当たり前ではと、アリの巣とか。

あぁ、だから進化っていう観念が必要だったのか、ダーウィンさん。生物が進化するためには時間が大事って。数学に時間の観念を組み込むのもだいぶ時間がかかったらしい。


この話も前置きでしかなくて。

素朴なパラレルワールド理論。

今日、掃除機を選んでいるときに、母親から電話があった。僕が「心配」っていう言葉に違和感があるのはこの人が原因。心配しているのだから時々は連絡しろよって、なんか論理がおかしくないかと。

本当に元気でやっているのかなぁって心を配っているなら、生存確認できてよかったってことにならない? これを、自分が定期的に確認したいから連絡して欲しいって希望されるなら、まだ分かる。こっちが心配しているのだから定期連絡するのが当たり前だろうって観念が嫌でたまらない。貴方が私の行動を規定するなと。

これって、定期連絡したところで、相手にとってはうれしくともなんともないみたいだし。

まぁ単に表現の問題だっていうのは分かるけど、僕は心配っていう観念は好きとしも、貴方を心配しているって表現する人は好きくない。心を配るなら心に留めとけよって。心配って、たぶん、心を配っている状態を見た第三者が造った言葉だと思う。主観で使う言葉じゃない。

 

あと、素朴に自由を語るとき、自分ができないことに向いていると思うのだけど、自分が現在できていることには全然目が向かないのだろうなって。自分の不自由を前提とした自由なら、いつまでたっても自由にはならん。


ここで、並行世界が出てくる。

自分の主観では存在しないとしても、人間関係において個人は微妙に誤差がある世界で生きている。同じ経験をしても、同じく再現できるわけでもないし。ここを個性とか人それぞれと評すか、微妙にずれた並行世界とするかは自由だけど、僕は後者の方が適切だとしようかと今日思った。

絶対に話が通じなさそうな人は、自分が生きている世界からずれたところで生きていると考えた方が、気楽だからというだけ。


そうやって微妙にずれた世界を生きている中で、ずれが少ない人と交信できるのがこの世界なのだろうな。


やっぱり、すべての人が同じ世界で生きているみたいな唯物論には納得できない。最小公約数みたいな話なのか(こんな概念ないけど。

結論。僕が好きだって感じた人は、ややずれている人達。

時間切れなのでおしまい。