観察眼

一般的なクールビズは9月までで、会社に聞くのを失念していたからジャケット着てネクタイを鞄に隠してビクビクしながら行ったら、全然そんなことなかった。ただ暑いだけ。オフィスカジュアルだったのだっけ、いや、でも最初6月にネクタイして行ったらクールビズって言っていたような。

 

びくびくしていたのは、去年某事務所の時に、10月になったからネクタイしなさいって急に若干嫌みっぽく言われたことから。その後依頼人によっては気になる人ってフォローしていたけど、本当に客に関係あることだったら前もって報知するべきではと思った。まぁ教訓をもって学習させるっていう習慣がある世界なのかも。

 

どうでもどうでも良いけど、自分軸と他人軸という分類を見た。人は分類が好きだなーって思いながらよんだけど。要は、自分軸は自分勝手で言葉で言われないと分からないって思っている層で、他人軸は常々空気を読んで、共感とか空気に合わせるのが得意だとか。

 

でもこれって受信側にしたら、これで良いかもしれないけど、発信側から考えると、軸は逆転する。自分に要求とか伝えたいことがあるなら言葉が一番簡明で、これは他人のためを考えていると言えるし、言葉じゃなくて察して先回りしろよっていう伝達方法は完全に自分軸。そもそも受信側の空気を読んでいるっていう認識もややずれているような気がするけど。自分が読んでいるのだからあなたも読めよって結局自己至上論臭い。

 

僕はというと、受信側ではあまり言葉本位でも空気本位でもないような。何を見ているかもあんまり定かでない。なんとなく暫定的にしか。発信側そのように認識されることはほぼないから、あまり察せられないように過ごしている。まぁこれもいつまでか分からないけど。

 

ともあれ。

 

昨日の日記の自分のずれというのは、やや言語が不十分だった。

本当の人格というのは不正確で、感情の源泉みたいな部分のこと。特に怒りが問題だから怒りに限定されていたけど。よく怒る人でも、本当に怒る対象には怒れず他に発散しているならば、どれだけ怒っても体の不具合が改善されないとか。

 

要は、感情表現が豊かな人が、当人の根っこの感情とちゃんと向き合っているかというと、そうも言えない。特に怒りが問題となるのは、怒りの本質が自分に向かっているものだからだと思う。

 

感情って、自分と世界のずれをどう認識するかだもの。

 

ひぃぃ三連星が楽しいなっていうのも、文章が好きな人のつぶやきがいちいちかわええとか、自分と同じ煙草の銘柄を買うのがいじらしいなとか、なんとなく一目置かれているなっていうところを認識した方がハッピーハッピー。

 

思考と感情を一緒くたにしている人は多いけど、神秘修行で、自分だけの時間を作って自分の思考と感情を観察するというのは、別に超感覚的世界を目指してなくても大事だと思う。自分がずれるのではなくて、ずれた自分が鮮明になる。負の感情も、まぁそんなことも考えたり感じたりしているのかって俯瞰できる。俯瞰できるからとて、コントロールできるかというのは別問題だけど。

 

好意は結構垂れ流しているか。

自分の利にならなさそうな限りは。例えば性欲の発散とか。

 

感情は共鳴して増幅するみたいなところもあるから、自分の感情が自分だとするのはなかなか決断しかねる。日記上の自分が自分だとしてしまえると一番しっくりくるけど、これは今書いているからだし。

 

そういえば、「今」について。

 

僕は、今のところ時間は流れていない派寄りだから、記憶力とか暗記力もあんまり信じなくなった。これって力っていうよりは、今っていう感覚を過去に延ばしている。例えば、今日のご飯はどういう順番でどんな味付けしてから遡って、今日読んだ本がどういう内容だったかとか仕事がどうだったかみたいなことは書こうと思えば凄い細かく記述できるのだけど、これって、記憶というカテゴリーをなくしたからだと思っている。

 

年譜は分からないけど、自分の中では今のように再現できる感情とか出来事は、記憶ではないように思う。再現しているとき、僕はここの時空にはいない。

 

だからあまり再現できないように酔っぱらっているのか、はさておき。

時間の感覚がおかしい。

 

あんまり壮大になってもいけないので、本の話で納めるか。

 

パラレルワールド読み終えた。何日で読み終えたかはカウントできないけど、おそらく1週間くらいか。面白かった。終盤はワクワクとかヒヤヒヤしながら一気読みしたから、今日の工程がちょうど20分ズレた。でも、SFとしてどうなのかっていうと、映画のバタフライエフェクトとか、アニメの時をかける少女とか、著者忘れたけど夏への扉とか、の方がワクワクした感。まぁタイミング的に合ったのだろうな。このタイミングにしかきっと読めていない。次はどうしようかな。

 

そうして、ヒヤヒヤ感だと、夏目さんの「それから」の方が良いところで止めている。三人組で仲良かった男女男で、男の主人公が残りの男女結婚をあっせんしたのに、主人公と女性は両想いで、この時代の強固な結婚制度の中で、男と男が話し合いをしているシーン。確かにこの女性はあなたの所有だ、しかし心は誰にも所有にはならないっていうフレーズが、結婚とは男が女を所有するという観念が出ていてなかなか。

 

でも、結婚にこの観念をもっている人は素朴に多いと思う。お互いに。

部分的な所有権っていう意味で。もともとそういうものだし。例えば、貞操の独占とか。

 

 

 

あと、同じ東京大学出版でも、日本史より西洋史の方が読みやすいのは、日本史だとどうしても著者の価値観が出てしまうところかなと思う。日本史、すなわち自分の民族史だから、どれだけ客観的に語ろうとしても、自分が思う日本史感っていうのは拭えない。西洋史の方が心なしか文字数多いし。だから、外国の人が研究した日本史とか日本の民族史の方が客観的なのかもしれないと思って、日本語では情報量に限界があると思って、英語もちまちま継続している。

 

なぜに今日文字数こんなに増えているのだろう。

 

最後、瞬読が気になっていて少し立ち読みしたけど、なんというかそんなに手っ取り早くできるものはないなって思っただけ。

 

時短できるようになるためには時間をかけないといけないというのが真理で、インスタントを求めること自体が、他律的

 

こういう意味だと経験則を至上とする考えた方も分かる。

 

まぁ良いか。

 

寝まする。

皆さん良い夢を!