直球論

 

 

嫌な夢ラッシュ。やはり中学までの交友からのセレクションだった。なかなか嫌な気分。これはどちらかというと、関係に費やしたコストに対する憤怒っていうより、自分が同じことを他人にやっていないかという、最後の垢みたいなものかなとか。中学まではなかなか劣等感と優越感を煽られたからなぁ。自分に言うべきことを他人への発言にしてないかとか。秀でていると思い込んでマウント取ってないかとか。

 

高校の同級生については特に何もないのだけど、何故だろう。まず、そこそこの進学校だったから、基礎学力が違うと思いついた。中学の同級生が30人くらい居て、普通科に進学したのは、上位の78人くらいか。そんで2年の選抜文系クラスになると結局1人だけ同じクラスだったか。どういう流れだったか忘れたけど、中学時代僕の顔が好みじゃないと評した人。そんな話どうでも良くて。

 

人は学歴では決まらないという。確かに人格の良し悪しは関係ないとは思うけど、比率はあるのかなぁと思わなくもない。誰か敵を作るみたいな派閥は、中学にはあったけど高校にはなかったし、そういうマウントを取っていたのは、商業科の野球部とかサッカー部の体育会系だったような。

 

まぁ、他人より自分がマシだと思う精神は自分を防衛するためにどの集団の中に居ても芽生えるものだけど、この芽生えってどうあっても先代からの継承だと思う。比較に違和感があったのはこの時代から。

 

単純に凄いと言われるのは問題ないけど、自分ができないことができるのが凄いと言われるのはなんか嫌。両者は質が違う。いや、厳密には言い方の違いじゃないけど。

 

もしくは、自我の殻がうまいこと装備できていたからなのか。大学以降なんだかんだ、離れたのも良かったのかも。ふらっと会いに行ってみたい人は2人居るけど、縁があればそのうち会えるかなというくらいでちょうど良い。

 

自我の殻については、大学入って読んだノルウェイの森のワタナベに近くてびっくりした。しかし、もはやここには居ない。

 

大学はどうだろう。もうちょっと良いとこ行けばよかった。

暗記で対応できる試験はあんまりおもしろくない。面白い講義として記憶に残っている教授も居なかった。まぁゼミの教授の厳しさとか、ひたすら読み上げてそれをノートに書き写す形式の刑法教授なら残っている。

 

そうして、大学時代の関係でふらっと会いたいなと思える人も今や1人。

 

何が違うのかと聞かれたら良く分からないけど、本当は断言できる。けど、結局好き嫌いに還元できる話だし、相手が僕のことをまだそういう風に思っているかが定かでないから、自発的には縁を決めない。

 

要は、好悪の枠でない枠に括られたとき、僕はプライベートでその人と接したくなくなる。仕事時間であれば公的時間だから何の問題もない。結局断言したけど。

 

 

んまー僕は自分の記憶を発掘するのも1つの趣味だから、そのうち何かお宝も発見できるのかもしれない。別に今の自分を補強するためではないから、ふとしたときに色々蘇ってきて楽しい。走馬灯の前借りみたいな。

 

 

こうやって自分自分としているのを見て、結局自分大好きかよと思う向きもあるかもしれない。その見解ってそれはそれで全く正解だと思う。

 

でも、結局人って自分の枠内でしか他人を観測できないっていうのがあると思っていて。観測範囲を広げるために必要なことって、色んな所に行くとかいろんなことをしてみるとかではないような気がする。厳密に考えると難しいところではあるけど、これって外を開拓しているというより、外からの刺激でどれだけ内側が開拓されるか。

 

ということで、結局内側だろうと。

 

で、一旦自分を単なる世界を観測する道具として俯瞰すると、道具として更新することが自分探りだったり。自分の死角がどこにあるのかって人のせいではないし。

 

でも、自分嫌いも他人嫌いも社会嫌いでもなんでも良いけど、窮屈だと思っている人ってなんだかんだ自分のことは好きなのだと思う。皆自分が好きだから、世界を変えようと思えるし、世界を嫌悪できるのだろうなと。

 

まぁ好きか嫌いかじゃなくて、否応なく固定化された自分ってことなのだろうけど、まず、その時分を決めたのが自分じゃないっていう観念があるのだろうな。

 

別に乖離性とまでは思わなくても良いけど、自分が自分であることくらい最低限観測すれば良いのに。自分を他責にしていない人ってそんなに人に怒れないような。

 

 

精神はともかく、世界への視界では、なんの感情も渦巻いていないときのほうがクリアになる時点で、もうだいたい分かる。

 

でも、感情が習慣になってしまった人とは関係したくない不思議。

 

おしまい。