語用

もはや鍋の季節のような気温。秋は一瞬だ。春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。今日の夕暮れは美しかった。オレンジと紫のグラデーションの真ん中を飛行機雲が貫いていた。結局配色のセンスが一番凄いのは神様なのか。別に信じちゃいないけども。

 

さて。

 

気温は低くても天気は良かったから、何を思い立ったか、シーツを洗いながら布団を干しながら掃除機かけていた。特にやらなきゃならないと思った訳でもなく。その合間に朝ごはんはうどん。具材はなくていいわと、塩昆布少々、顆粒和風だし、醤油、砂糖、梅干し、生姜で柔らかめに作った。昼は親子丼。鶏むね肉と玉ねぎで、出汁にはなんとなくワサビを隠し味に。一般的な汁だくの親子丼が好きじゃない。なんとなく雑炊と似ていて。だからかつ丼が好きだったのかと。ということで、なるべく汁を抑えた親子丼。夜は、カットトマト缶と白菜としめじと舞茸のコンソメ、ケチャップウスター炒め煮がメイン。

 

でも、気温が低いとはいえ買い出し終わって帰って後に、シャツ6枚(1週間分の仕事着5枚とベージュ一張羅1枚)にアイロンをかけると汗が滲んだ。布団のシーツを被せるのも含めてかっきり1時間かかった。家事とは大変なものだ。もう少し効率的にできそうだけど、まだ練度が足りない。

 

こういうのが生活かぁとふと思った。「生活」という言葉は結構注目ワード。生活という概念に対する考察が始まる。

 

概念が漠然として広すぎるから捉えきれないけど、これを婚活とか就活とか部活と並べると、途端に分かりやすくなるよなと。そんなに大したものではない感。確かに生きるための活動と考えると仰々しいけど、日常も含まれているようだから、もっと範囲を絞って、最低限の生命を維持するための活動にしたらどうだろうとか。となると、生活という概念もそれほど大げさなものではなくなる。一般的な語用ではないだろうけど、家事とか料理とか諸々の別の概念が一緒くたになっているから分けてみようかというだけ。

 

日常と生活も別ものだと思われる。

切り分けるのはなかなか大変だけど、と、日常も生活もあってないようなものだろうと思っている僕が申しているから説得力の欠片もない。

 

でも、生活ってなんとく自縄自縛みたいな響きがある。日常は生活の俯瞰か。

 

この文脈でいうと、資格試験の勉強は現在の生活から脱するみたいな意味合いがありそう。生活が向上するかどうかは別の話だけど。生活の苦しさを他責にしている人はきっとどこに行ってもしんどさを見つけてしまう。

 

僕は生活より前に在る、「自分」という自縄自縛の概念を脱するために諸々しているのだと思う。結局、何処でも最低限上手く生きていけそうだから、生活についてはどこでも良い。

ただ、共同生活には向いてないよなぁというだけ。いや、ワンルームで同棲経験はあるし、18まで家族と共同生活はしていたからやってできないことはないけど、共同生活になった時点で自分が固定されてしまう訳で。まぁ僕のことをどうでも良いと思える人ならあるいは。

 

どうでも良いっているのもおそらく語用としては一般的じゃないけど、ちゃんと自他を分断できるかどうかという意味。自分の中にある相手の人格を更新可能性があると捉えることができるかどうか。

 

まぁ良いや。

 

ヘミングウェイさんが古典文学として残っている理由がなんとなく分かった。風景描写がとにかく綺麗。綺麗というか、普通に読んでいるだけなのに、否応なしに読書中の心象風景に色が付く。これって文章力とか表現力の問題なのかって思うくらいの圧倒感。古典はすげぇ。

 

色も文章も見ているだけでは流れているだけで、自分が観測したそれを反芻しないと意味がないのだろうと。何回か読むって理にかなっていてなかなか面白い。

 

 

知っていることと使えることは違うっていう概念はだいたい共通項だけど、自分もこれに含まれるってなったら、受け入れられるのはどれくらいの層だろう。

 

昨日の散髪帰りにたまたま、お母さんと小さな男の子が居て、お母さんがやたらと怒っていた図を見てしまった。帰り路も重なっていたからその後も見てしまって、お母さんがやたらとイライラしているだけじゃないかと。

 

怒りの嵐で育った身としては、怒気ってそのうち去るだろうと思うから、何の教育にもならないと思う。怒気の中で何を伝えても、怒気の方に注視するから、そのうち終わるだろうなとしかならない。だって、怒気って相手に何を伝えるためかというと、自分は怒っているぞっていうだけ。ただ、怒気の遣い方として、子供が命の危険がある行為をした時にピンポイントで遣うのはありだと思う。なんで怒られたんだろうって思考するために投げるという教育。

 

でも、成人同士の関係の中で怒気がなきゃならないのは、なんだかおかしいとも思わなくもない。全然大人じゃないじゃんって。

 

最後。

 

僕が他人の為に祈れるのは、という話をしようと思ったけど、日本語の助詞の不自由性で。

何というか、単純に限定するように表現するのは難しいなと。例えば、あなた「は」こうだって言ったら、相対的になるし、あなた「が」だと絶対的なように見えて、なんとなく他も居るけどみたいな雰囲気がある。限定された空間を示す助詞ってなさそうね。

 

おしまい。

 

 

皆さんそこそこな良い夢を。