切り分け
火が使えるようになったし明日の水気は気にしなくて良いから、鍋。ほんだしを買うの忘れていたのは致命的だけど、中華だしがあったから鶏塩鍋。漠然と考えていたのはきのこと豆腐の単純湯豆腐のつもりがこうなった。薄味で美味しい。
ご飯の話はもういいか。
もう新人じゃなくなったから同期と席が離れたのだけど、同期はなんかすげぇ。知識の偏りが運によるっていうのがなかなか面白い。空いているような空いていない時間でどれだけ積むか。ともあれ、先生が鮮やかにエクセルで作ってくれた数式を残しておいて検討しようと思ったのに、保存しないを選択して消してしまった。残念だけど、なんとなく記憶の残像があるから、記憶から再現しろということなのだろう。割り算で切り上げ切り捨ての数値はなんとなく0とか1とか。四捨五入もできるらしい。エクセル楽しい。確実に取り入れて帰ってから使ったのは、複数のセルの幅を一気に広げる方法。なるほど奥深い。世界は広すぎる。
なんだっけ。
あぁ、やっぱりこの文脈でも「世界」は対象でしかないということ。昨日の日記を当人に見せたら、そういう意味ではなかったって言われたけど、そうだったら、あの質問が出るのはおかしくないかと。この文脈だったら、世界がほどほどに満たされましたか。に対する僕の回答は、そんなこと知ったこっちゃないだけど。日記は見せない方が良いと思った。世界に対するというか、言葉の意味の認識がどうもズレている。
だからミクシィ時代でも自分の文章を物理的な関係の人に見せる気が無かった。全然変わらないじゃないか。別に陰口なんて叩かないけど、それでも無理。僕像が変わってしまうというより、現実的に表明している語彙と、文章で書いている言葉はずっとズレていたということ。
そりゃあそうだ、こういう思考を語れる場なんて現実にはないのだから、現実にはないところに自分で創ってきた語彙。なんで特に毎日話題もないのに書けるようになったかというと、別に他人に意味付ける必要はないし、他人に認めてもらう必要もない。
過渡期では想定読者が必要だったけど、もはや大丈夫になってきたというくらいの調整はあった。
誰に見られなくてもいいけど都合が良いならすべて非公開にするのが一貫しているし、誰かに認められたいなら、公開することで読者を集めれば良いけど、僕は、その真ん中あたりを取っている。過渡期では似た者ホイホイで、縁を期待していた節はあるけど、今や僕と似た人は居ないから、単に書くだけでええわと。単に書くだけって想定できないから、だいたいの人が自分に引き直して考えるはず。
僕は好ましい文章を書く人が毎日これくらいの文章書いてくれていたら、世界がおかしなことになっていると思うし、どうにか整合性を取らなきゃならないから混乱は分かる。多分混乱違いだろうけど。
でも、嫌だなって思うことがあって。僕が書いた文章と、僕の現実を一致させようとする観念。通話とか触った僕と、ここにいる僕は全く別の人。本当の気持ちは文章にはできないし。
なんとか引き直そうとしていたのが、直近の元恋人さんと、人間好きかの人。別にそう読み取ることは勝手だけど、整合性を問われるのは困る。言質を取ろうろするのはなんだかおかしい。現実であれば問うのは言葉じゃなくて行動であるべき。このべきは事実でも主観でもなくて、世界を観察していて思うこと。現実において言葉に独立性はなくて、単なるクッションでしかない。言い過ぎた。
まぁ、現実において何に価値を置くかっていうのも人それぞれだし人の中でもケースバイケースだろうけど、当人の中では一貫性があると思い込んでいる人が観察される。
人間好きかの人に、僕が満たされることはあるんですかって聞かれたのだけど、僕は基本的な自分については満たされなくて良いって思っているけど、局地的には満たされることもあって、満たしてくれた人には重きを置いているって答えてもきっと通じないと思って言う。この局地的な満たされって、偶発的なものでしかない。
満たされようとする試みとは外れている。求めて応えがあれば満たされるのかっていうのもだいぶ危うい幸福論。
応えがないことの方が満たされることもある訳で。
アヒル―トの為に早寝しよう。
おやすみなさい。
僕の文章をどれだけ読んでも僕は抽出されません。
では、良い夢を。