言葉の意味
なかなかのずぼら的自業自得でリズムが乱れた。それなりに楽しんだけど、社会的生活力はないが、サバイバル生活力はある。まぁ単にガス代を払うのを忘れていて、止まってしまったとうだけ。文明の利器に頼っているとなかなか厳しい。
まず、徒歩で温まって帰ってきたときに止まったことに気付いて、そのままコンビニに小走りで支払に行く。そうして温まった体に無理矢理冷水シャワー。毛穴が閉まってちゃんと洗えているか分からない。良い修行になった。この季節でも必要に迫られて馴らせば冷水をかぶれる。何やっているのだかというという感じだけど、楽しんでいるのだから問題ない。
ご飯に関してはガスがないことは全くデメリットにならない。メインは蒸し鶏風ポン酢風の白菜ともやし。むしろ気にしなくて良い分楽。だだ油分が足りない気がするからサラダのドレッシングはイタリアンにした。現代の食生活で油分が足りないってなかなかないことだと思うが。うまうま。読書時間も居間でやった。時間をカウントしながら読んでみたけど、あんまり変わらなかった。
なんという冒頭。
人間の定義として、これは人間にはならんよなと。人間は真似しちゃいけない、というか真似できない。という文脈での人間とは。
定義論より意味論。
さておき。
今日の夢は、なかなか面白かった。遠近感がごちゃごちゃ。シロクマとかオリジナルの怪物が地元の大きめの川を隔てて跋扈していて、あっちに行ってはいけないってなりながら、最終的には、その怪物は人と繋がっているみたいな暗示的なもの。記憶にない古びた家屋というか路地も出てきて、相変わらず登場人物は関係したことがある人だけど、そろそろ人物は押されている模様。
文とは自分の感情を伝えるものだけど、その文は感情の状態を示していないっていうフレーズが「ことばと意味」にあったのだけど、言葉の意味って、発話者からと受話者からの二重の意味付けがあるのだろうなと。夢を語ろうとするとき、そこには意味あるものとしての意味付けが必要になる。夢を全部言語化できると思っている人がいるとすれば、それは偉大な表現力を持っているか、自分が言語化できるものしか夢ではないか。
昨日の日記の最後に、世界がほどほどに満たされますようにって書いた。人間好きかの人に気まぐれにコピペしたら、今朝、「世界がほどほどに満たされた朝ですか」ってメッセージが届いていた。
あれって思ったのが意味論の発端。僕が世界って言うとき、僕は世界に含まれない。世界がみたされますようにっていう言葉は、僕以外の世界が勝手に満たされていれば良いなだから、僕が満たされることとは何も連動しない。
受け手の人は、世界に自分が含まれているし、人間に自分が含まれているという意味付けなのかと。これは確かに普通の感覚だと思う。僕が言葉に付与している意味が独特なだけ、で収めて良いのかどうか。
でも、僕もいちいち日常生活でこんなことを考えている訳ではない。発話の言葉の意味ってそこまで意味がない。だいたい反射的なものだし、考えて発話したものでも、伝達に重きが置かれているから、意味があるとすればそこでしかない。
発話と印字は別物だと思うのです。
その意味があるからまだ文化が残っている。んで、僕は圧倒的に、人が書いた言葉に重きを置いている。書くためには、言葉に意味を持たせないといけないというところから。発話のように書ける人も居るかもしれないけど、そういう人は発話の方が省エネだからそこで生活すると思う。
つまり、発話は反射でなんとかなるけど、一方的に書くしかない文章はその人が自分を表現しようとしてしか出てこない。けれども、この情報は二次情報でしかない。
自分が捉える自分も二次情報だと思うけど、まぁいいや。
最後。
あさっての休みは、アヒル―トでは済まないかもしれない。展示物見たいと思いながら、行ったらもはや気持ち悪いと思われないかなという葛藤。それほどでもないとは評価できない言葉世界での混同があったから。
加害妄想。
だいたいが妄想であればよいけど、どれだけ張り巡らしても盲点があるから。
そんな感じで。
皆さんの夢にお邪魔できますように。
おしまい。