縛りプレイ

 

 

 

自由を不自由に使ってこそ、人間である。

大林宣彦

 

 

昼寝で凄く嫌な夢を見た。

 

起きたあと、意識はあるけど体が動かない。いわゆる金縛りみたいなもので、入眠時なら結構ある。違いは起き抜けであることと、厳密には体が動かないのではなく、意識が動かないというところ。視界に2リットルペットボトルがあって、握ろうしたら握った感触が帰ってきた。感触があることが余計に恐ろしさを醸す。意識がここに固定されたままで体感だけが供給されるとしたら、例えば救急車を呼ばれて病院にいって寝たきりになっても、ちゃんと時間は流れている。これが死だとしたらまさに地獄。

 

 

そうして、昼寝してあと、現実でもっと悪いことが起こる。

自分の阿呆さがここまでだったかと、悲嘆ではなく猛烈な虚脱感。

 

行きたかったイベントの日付を一週間後だと勘違いしていてご飯を取り逃がしたという、単なる自業自得。自罰的な言葉は気を抜くと満載にないから今は制限しているけど、今日は、せめて勘違いは一週間前にしとけよ阿呆とか、せめて今日の昼前に気付けよ阿呆とか、もっと言うと、どうせ気付くなら日付変わってからにしろよ阿呆とか、自罰的な言葉が満載だった。

 

その為(だけでもない。そろそろ自由にしようかなと思っただけ)にだてめがねとシャツを買って準備してうきうきで外用の会話スキルもそこそこ修練したのに(これは完全に仕事上のたまたま)、これをぶっ壊す自分よ。会いたかったのに。

 

自業自得というのは、日付の感覚に無頓着なことを修正してなかったこと。でもこれは素朴な時間間隔を鈍らせるから、今回の教訓を踏まえても修正しようとは思わないかもしれない。

 

それよりも、本当の問題は、僕の人生上のところ。あまり楽しくなると、何かばちが当たる。

これってなかなか致命的で、世界がご都合主義のイージーモードになっても変わらない。

 

求めるものは手に入らないっていうことでもなくて、求めだすと何かがズレる。

認識がポンコツになるし、もっと言うと、現実味がありそうだって想像しだすと現実化しない。思考の現実化とは真っ向反対の見解だけど、もう思考で現実化してしまっているとなるのかも。

 

やれやれ。

 

冒頭の自由不自由は良い言葉だと思う。自由の行使は他人への影響が伴うから、自分のためにではなくて他人のことも考えましょうっていう意味。

 

ただ、他人への影響がない内側の領域でも、自由はきっと闘っている訳で。

この自由の調整って、なんにも基準がないから、厳密に言えば自由でもないけど。自由って基本的には外からの基準からの離脱っていう意味があるはず。自由にはいつでも外圧がある。

 

内側の基準は自分が決めていること。

 

今回の件は、本に対する食欲を全開にすれば日付の無頓着なんか関係なかったのに、他の意識が減殺したから、勘違いもなんだか恣意的だったのだろうなと分析する。阿呆らしいけどここだけは抜け出せない何かがありそう。こんなの自他の未分離でしかないのに。

 

抜け出す方法論もなんとなく分かるけど、これをほんとうにやって良いのかって。

 

 

ともあれ。

 

自分は使い勝手良いところと悪いところが極端だ。

何かを当てようとすると外れる。けど、当てる気がないことは当たってしまう。

 

自分のことを完璧に他人事にしてしまえればもっとうまくいくのかなぁ。

うまくいかないことも美味しく食べてしまうからどうしようもないか。

 

これを調整でどうにかするのは難しい。

何かを良くしたら何かが悪くなる反作用がある訳で、良いことだけつまみ食いはできない。

 

 

なかなか恣意的な文章だ。

誰宛でもない言葉を拾いあげる調整はあっても良いかも。

 

 

本当の自分なんてどこに居るのかも知らないけど、ここに何にも供給できないふるまいしかできないのはなんとかしなきゃなぁ。

 

嬉しいも楽しいも日常にあるし、供給されたら有難いけど、それとこれは別で。

 

 

おしまい。

 

良い夢を!