天秤

 

 

 

 

昨日とは打って変わって、炊飯器でご飯を炊くことすら億劫なエネルギー量。精神エネルギーって何かしないと蓄電されないようだ。まぁ昨日満足だったから、今日は特に何もする気もなかったけど。満足の揺り戻しで自己嫌悪が凄かった。

 

だから、満足はほどほどになのか。満足すると先のエネルギーが枯渇する。そうか、一般的な語用の満足って、そもそもがほどほどなのか。英気を養うみたいな意味。僕の語彙だと、もういいやとなることかと。もう何も要らない何処にも流用できないエネルギー。いや、エネルギーですらないか。走馬灯みたいな、時間から孤立した瞬間。藤田嗣治展もそうだったか。厳密には全く同じではないけど。

 

嫌悪感と言えば、自己嫌悪って結果とか行動に関してだけど、生理的嫌悪に近い。と思ったけど、あまり変わらないか。自分の素朴な感情の発露が人に向かった時の気持ち悪さ。目的が自分で分かるからグロテスク。目的なんて求めてない癖に、どしてそれをしようと思ったのだと。直接向かわせなければ問題ないのだけど。感情自体は否定していない。感情自体を否定するのはやっかいなことになる。

 

僕が人間関係を断捨離したのは他人がどうのいうより、関係の中での自分の感情の動きが嫌なのかも。社会生活向いてないなぁ。自分の感情を自分としていない。

 

そうして、ついで繋がりで、語彙。文章脳のまま人にメッセージを送るのもよろしくない。失礼というか不遜というか。世界が一人称だから他人が対象でしかなくて、名称を大事にしなくなる。他人と語彙を合わせるのであれば名称は最低限なのに。

 

自己嫌悪の掃き出しおしまい。

 

僕は自己嫌悪を言い訳にしている節がある。ここを脱却するという方向では、素直な感情の吐露は良い傾向とも言える。それで否定されるかどうかは可能性の話であって、どちらでも良いのだから。気持ち悪いバイアスは自分の中の規制でしかなくて、その先は相手に投げてしまえば良い。

 

結局のところ関係は、ある部分でお互いの物語が一致しないと生まれないのだから、物語が生まれないようにあえて気持ち悪く表明することもありである。我ながらなかなか矛盾しているけど。

 

記憶は事実だという認識の方が多いと直感するけど、記憶の評価なんて顧みる今の精神状態でいくらでも変わる。なんで人が流動的に見えないのだろうとは思うけど、きっと、分かり易さなのだろう。

 

人は楽に向くというというより、分かり易さに向くと言った方が適切。

矛盾でややこしく存在するよりは、自分っていう確実な枠を作って、そこからはみ出した自分は観測しないようにした方が分かり易い。こういうところがうまく行かない類型も今や名前が付いている時代。

 

感情の表現は事実だけど感情は事実ではない、けども当人の中では感情の方が事実であって、感情を表明した言葉は二次情報。

 

記憶を再現するのは、その瞬間の感情も含める訳で、そういう事象と感情があったなぁって思い返せるのであれば、それは自分史。

 

なんの話か分からなくなってきた。

 

ヘーゲルさんも超感覚みたいなことを書いている。空虚空虚って言うから、俺のこと言うなって思いながら読んでいた。対象を認識している理性が空虚だっていう話だったような気がするけど、僕は素朴に分かるけど、よくもまぁこの本残ったなと。ありがたや。

 

 

そういえば昨日カラマーゾフ上巻読み終わっていたのを忘れていた。この本あんまり物語していないから、置いておいても良いかな。場面がぶつ切りの演劇みたいな本。

 

森博嗣さんのSFでは、人間の定義が揺らいでいる。人工知能の技術が発達していて、知性では人間を定義できない。今もそんなに変わらないと思うけど。それと、仮想世界と現実の境界も揺らいでいる。自分の思い通り設定できて、体感も可能な仮想世界があって、どちらが現実かという話。その中で、かつて現実とは物理的な肉体が前提とされていたと書かれているのだけど、現代はそんな感じなのだろうなと。そういった不自由性が現実とされている。

 

僕の現実感はどうもおかしい。

そもそも現実という基準がないから。

 

昨日の出来事は、記録というより夢に収納されるものだとしているし、もっと夢のように物理的世界を生きたらええやんとも思っている。

 

人の体温を直接感じるって、まぁいいや。

 

 

こういう話は、最終的に、何をもって人とするかになるけど、人の基準自体が誰しもの中で流動的だからなぁ。基本的には生物学的な人の中でなおかつ依怙贔屓している人が人なのではという仮説があるけど、検証する気もない。

 

では、皆さんが暖かく寝られますように。

 

おやすみなさい。