感情の中身

 珍しく帰りに電車に乗った。これは楽しようと思った訳ではなくて、金曜日のうちに色々やっておきたかったからなるべく早く帰るために。これはのちに覆されたけど。休みの日の間延びした時間と、仕事から帰った後の凝縮された時間ではどちらが重いかを比べると明らかに後者だから、むしろ休みの時間にあえてなげてしまえと。本当は日曜日完全フリーになるためにという備えだったのだけど、備えの必要はなくなった。これはのちほど。面白さは休息では得られないとアランさんも言っていた。

 少し遡って。最寄り駅の改札から出たすぐの所に売店がある。タバコを買ったのだけど、おばさんというかおばあさんに近い店員さんがお釣りを返してくれたとき、一瞬手が触れた。とても冷たかった。良かったなと思った。細かく言語化すると、もちろんこの店員さんが外気と近いところで働いていることに対してではない。この店員さんが暖かな職場で働けるような力なんぞない。ただ、僕が冷たいと感じたということは、店員さんに僕の熱が移動したということ。一瞬だけでもごく一部だけでも暖かくできたこと。この不文の一瞬の関係が良いなと。誰かにできることなんて限られている。

 仕事と言えば、今日通話応対していた年配の男性が最後に僕の名前を聞いてきて、貴方の対応が良かったって言っておきますねって言ってくれた。この人おそらく本当に言うだろうなと思いつつ、僕は僕が想う普通の応対をしただけ。相手がパソコンに疎いから、どういう風に目線を動かすかまで細かく説明しただけ。どういう原理か分からないけど、相手の画面と接続できるアプリケーションがあるから、どういう風に目線を動かしているかはカーソルの動きで把握できる。自分がそうさせたいという相手を操作する感覚がない。操作して欲しいという人のほうが多いけど、その中でも自分の正しさを信じている人もいるからなかなか難し楽し。

 職場でいうと、先生とまっさんの会話が一瞬聞こえてきて、先生がこういうのはわくわくするって言っていた。おそらく調査系の案件で、それをこなしたところで対価としての給料には全く反映しないだろうに。こういう交換の観念がない上司が居るから楽なのだろうなと思った。仕事に対して誰も使用せず勝手にわくわくしている上司ってなかなか奇特。といっても一番若い社員は転職するとかで、現代の会社もかなり大変だなぁと第三者目線で見ている。転職の自由は謳歌すべきだと思っているから、時代としてはとても良い。ただ仕事に関してなぁなぁのなれ合いが無くって来るという意味で言えば、能力を向上しようとしない人には厳しくなってくるだろうなぁとか。

 先生は、ぼそっと視力が衰えているからとか言っているから、自分の肉体の衰えが足かせになって居ると思っているのかぁとか観測している。でも衰えている人がわくわくという言語を使うかしら。

 という感じで、自分で言うのもなんだけど僕は人のことを割と興味津々で観察している。観察には関係は関係ないから。観察と自分にとってその具体的な個人がどうであるかっていう評価は別物。これが見えるということだけど、これを相手に言ったらそれはもう違うものになる。なんでかって、主体的な個人は観測者を求めていないから、貴方ってそうでしょうって言われて自己認識から外れたこと言われたそれは違うと反発が起こる。僕が観測するに、人は人を自分にとってどうであるかでしか見えないように見えるけどどうだろう。僕は相手から観測された僕のことも見ているし、特に否定はしないけど、外れても想うみたいな観念はなさげ。自分の認識から外れた人はきっと自分に無関係な世界になるのかも。他人の世界は分からないから、断定はしない。ただ、断定されたら断定しますよというだけ。

 という世界で生きていること自体がもはや非現実なのか。

 

そもそも、ちゃんと現実を生きていると自覚していると評している人達に聞いてみたい。貴方が現実としている基準は何ですかと。五感と観念の一致以外に何かあれば聞きたいところ。僕が思うに、現実も幸せと一緒で、自分がそう思えばそうとしか思えない。自分の物理的五感もたぶん大して気にしていないように見える。五感が感得した統合が普通の人格だけど、厳密にいえば五感が収集してきた初期の統合があればそれが人格だからその先の五感はどうでもいい。

 

想い人に恋文送る。

 

送った。

 

自己観念が不安定なのは別に良き。僕の世界は誰かの世界に存在するのが自分だった。相手の世界を害さないように、相手の観念の中の自分を壊さないように。これは関係性の中では安定だし、相手のことも安定的に決める観念。僕はポンコツだから自分の世界から離れた人なんて想えないし同情もできない。できるのは想像だけ。

 

もうそろそろ最後だけど、のろけでも書いておこうか。想い人と現実的に会う機会が明後日なのだけど、会った時名乗ってくれたら嬉しいとのこと。正味、何が嬉しいのかは分からない。ほんとに。この人の基準が全然不明。ただ思うのが。自分にとって良きという観念を相手まで広げていないこと。自分にとって嬉しいというだけで、僕を操作しようとはしない。

 

こういうところがとても好きだなぁって。人に対して汚点を述べないという観念があるかもしれないけど、ストレスだったら切っても良い訳で。あんまり物理的な関係はないけど。

 

要は、自分にとって有用か害かが現実的使用だとすれば、想い人が僕に対して投げてくれえる言葉とか非言語は明らかに非現実。

 

現実とは苦しいものだとする観念があるとすれば、僕の毎日は非現実。

 

では、皆さんがちゃんと満たされますように。他人を害さない形で。