プリズム

 

 

帰り際のスーパーでレジの前の動線を考えて並んでいる人を見かけた。とても珍しい。店舗が狭いから、レジに並ぶ客と棚が密集していて人が続けて並ぶと1つのルートが通れなくなる。しかし、その人の後ろの人は何事もなかったようにそのスペースを埋める。埋める。埋める。動線を開けている間に誰かが割り込むこともないし、礼儀正しく並んでいるのに。他の人には何が見えているのだろう。本気で世界の違いを感じる。

まぁこの店舗自体も立地とフランチャイズで持っているようなところ。レジは3台あって、どう考えても僕が行ったタイミングはピークなのに2台しか稼働していない。下手したら1台の時もある。補充の店員も見当たらない。新人の良く動く若い娘達か逃げそびれた年配の方が回しているイメージ。まぁそりゃしんどい時は働きたくないよなと思うし、経営者の手腕みたいなところもあるだろうなと。どうせ客は来るだろうだったらなんか危うい気がするなぁ。まぁなくなったら困るけど、困るだけ。

 

さておき。個人ブログはWordpressを考えている。レンタルサーバーで月額制だから検討中。文字の大きさを変えたり画像を挿入したりして視覚に訴えることは特に考えていなくて、ただ文章が読みやすく書けたら良いから、ややオーバースペックな気もするけど、色々種類ができるなら、酔いどれブログを基にしてある1つの対象についての文章置き場を作るのも良いかなぁとか。劇評コーナーとか、読書感想文とか、学問考察とか。まぁ誰かができることってだいたい自分もできることだから、色々試す1年かなぁ。芸術とか人格の表現物はできたとしても違うから、やや違うけど、誰かが使用できる技術とか知識は人であれば習得までにどれだけかかるのかという違いしかないような。

思い出すのが、何年か前、ある会社の面接で色々習得したいのですと言ったら、今さらそんなこと言ってないで、社会的生活を営むために自分に何ができるのか絞らないといけないのではないかと、重役っぽいおじさんが言っていた。なんとなくそれっぽいけど、終身雇用制度はもうないし、これを鵜呑みにしていたら、劇評もきっと書かなかったろうし、自分を楽しむことができていない。ついでにこんなに分散的な読書生活もなかったろう。閉じる方向の人の話なんて聞かなくて良いと思う。とか言っているから母親は僕のことを近所の人に評すのに息子はまだふらふらしていてとか言われる訳だけど。知ったことではないけれど。

 僕は不安定でも自由を選びたい。ちゃくちゃくと積みあがっているし。飯のタネになるかどうかは知らないけど、人生を楽しむタネにはなる。

 

 楽しい話。昨日動揺しながらもちゃっかりオリジナルステッカーを購入していた。全然売れていないって言っていたけど、ということは希少価値。ただ、僕は収集癖も所有癖もないから、物は使ってこそだと思う人なので貼る場所を検討してすぐ貼った。やはり見える場所が良いし言葉のシンボルとしてノートPCの指で動かすマウス的なところ(文章打つとき反応するのが鬱陶しいから使っていないけど)のすぐ右。白に虹色が映えるし、目線を下げると口角が上がる効果がある。ふふ。ありがとうございます。

 

 そういえば、肝心の想い人の本について書いてなかった。とても美味しい。ついでに時々本人の像が浮かんで来てかんみ(甘みじゃないからあえてひらがな)が増す。昨日も書いていた素材の話でいうと、自作の本というのは、製本は業者に頼むにせよ、他は全て著者の意図が反映されている訳で。まず、紙の手触りがとても気持ち良い。おそらく自分で触って厳選したのだろうなと。本の紙の手触りとか検証した人あんまり居ないだろうけど、なんだか普通の本の紙よりしっとりしているのです。良く分からない質感。

 あと、ちらちら何周かしてみたところだと、他の人は普通の文庫本みたいに製本していたのだけど、これはとても薄い。とてもこじんまり。予算の関係なのかとも思ったけど、中身と併せるとこれはあえて選んだのではないか。他には表紙の色味にもきっと意図がある。パステルの青が一冊目で二冊目が赤、次は黄色かなぁとか想像させる感じ。

 ちゃんと中身の話もしておこう。文字とページの余白とかフォントも好き。文体と良く馴染んでいる。なんだか絶賛しているけど、これは別に想い人だからということではなくて、因果関係としては逆。文体に惚れたから人格にも惚れた。だから、文体の見え方は好意に左右されない。

 あなたのシルエット。1人の少女が綺麗な少女に同化してなんだかんだ現実的な幸せを得る話。SNSで承認欲求を得るために加工した画像を上げてなんやかんやだけど、まず思ったのが登場人物の像が見えてこない。抽象化されているというか輪郭しかないというか。これは表現力不足という訳ではなく、ちゃんと像がはっきりしている人物も居る。主人公と結婚することになった不細工な男性。全ての女の子と女の子だった人のための本だからだろうなと。女という抽象と男という具体の対比的表現。

 あと、ひらがなと漢字。冒頭はとてもひらがなが多いのだけど、だんだんと漢字の量が増えていく。時系列の表現としてはそれほど珍しくはないのだろうけど、それを越えて筆者は同じ単語のひらがなと漢字に形を越えた別の意味を持たせているような。

 言葉で接した経験則で言うと、とても注意深く言葉を遣う人。発話だとまた印象が違ったけども。良い意味で。

 

 という読書感想文というか本のグルメレポート。劇評もグルメレポートみたいに書いている節があるな。どう美味しかったか、から作者がどういう調理法だったのか、材料は何だったのかみたいな。

 そうして、答え合わせもできなくもない。聞いたら答えてくれるかどうかはともかくとしてとりあえず聞くことだけはできる。でも、別に僕の考察が作者の思惑と一致することに大して意味を置いていない。むしろこういう考察ができること自体が僕にとって面白い対象だということ。演劇もそんな感じ。こんな利己的な文章を面白いと思ってくれる人が存在するのは、不思議な気持ちになる。

 ここを突き詰めていくというのが1つの人生の筋。

 

 なんだかもうのろけの続きだけど、アランさんの芸術の体系で、人の顔とは鏡だっていう表現があって。これは僕も考えていた。あらゆる意味で人の顔は鏡面構造があるなと。例えば、個人の顔つきってその人が世界をどう捉えているのかの鏡だとか。で、顔つきがどういう風にできるかって、ほぼ自分の感情をどう扱うかに等しい。感情自体は人であまり大差ないけど、感情を顔に顕すかどうかある程度操作できる訳で。全てを反射的に顔に出してたら、その人の中で一番強い感情が顔に刻印される訳で。

 それとは別に、人同士の鏡面作用もある。自分が相手のことをどういう表情で見ているのかというのは、相手の表情で見えるというような感じ。僕は結構自分は鏡的だなぁと思っていた節があるのだけど、通常は鏡を見る感じなのだろうな。鏡だからどちらが先か決めるのは不毛だけど敵が多く見えるのは、自分が相手を敵対視したのが先かもしれない。人の無意識は自分で思っているより敏感だから、なんとなく嫌な人とか、なんとなく嫌だと思われている人とかはきっと顔で気付かれている。母親は表面上平成で振る舞っているけど敵ばっかりだって言っていたけど、そんな浅はかな繕いは鏡張りである。

 

 というところで、本当にこんな人居て良いのかなというのろけ。僕に満面の嬉しさの表情を向けてくれる。鏡的に考えると僕が人にこんなに嬉しさを与えられる人なのか、ほえ、とほうけてしまう感じ。たぶん僕の表情も緩んでいたはず。いや、てんぱってひきつっていたかも。その後にやにやする顔を収めるのが大変だった。今でも。

 

 どこの思春期のやり直しなのかという感じだけど、経験則は踏まえてだから全然違う。焦がれるより穏やかな気持ちの方が勝ってしまう。恋愛感情と限りなく近いけど、全く違うオリジナルの気持ち。どう違うかというと、たぶん、自分に利があるから生まれた好意ではないこと。表現力不足。

 

 なんかもう、僕が定期的に送る恋文を読んだ想い人があの表情を浮かべてくれている

のだろうなぁと想像すると、とても嬉しいだけ。ちゃんと照れてくれていたし。それ以上に僕が照れていたけど、照れさせてくれる存在も希少価値。

 

 最後に少し引き締めて。

 アプリオリとアプステオリのこと。先験性と後験性。たぶん違うのだけどと前置きをして。アプリオリな直感って、僕の定義だと、経験を基にした経験則に基づかない観念だと思っている。例えば、本当の三角形なんて存在しなくて観念的な存在あるっていう観念は先験的だとされているけど、これって幾何学の経験がないと無理で。

 美的感覚もきっとそう。経験が少なくて済むというのが天才の定義かなとか。だから凡人は経験を積まないといけない。ただ、経験に付着してくる経験則は違う。正しいっぽい蓄積は感覚にとっては不純物。

 

 これで現行用紙9枚弱か。読書感想文5枚ですら夏休みの40日くらいかかったことを思うと、想えば遠くまできたものだ。

 

では、良い夢を!