材料

 

 

今日はとてもぐだぐだしていた。ゆるゆる。しかしなんとも人間ぽくてよき。昼寝をしまくる。この緩み具合だと風邪を引きそうな気がするけどそれも良いか。

 

もともと自分はこんなもの。詰まらない距離間はつまらないなんてことは決してなくて、だからこそという気もする。真空パック。鮮度。継続。願いは人に向かうと欲望にしかならないけど、その欲望が自分の人となりなのか。

 

さて。

 

劇評の件。土曜日に観た方は台本のデータが有料らしい。うーん。なんというか。分かるのだけど、あんまり劇評を書かれることに乗り気ではないのは伝わった。確かにどこの馬の骨とも分からない人に創り込んだ子供のような台本データを渡すことを渋るのも分かる。詳細に記述されるために創ったのではないという気もするし。

 

たまたま最初が良かったのかなぁ。ひたむきな星屑の台本はとても美味しかった。SO LONG GOODBYEの台本はまだ取っておいている。もう一回PIPE DEAMの劇評詳細に書きたいって言ったら、データ貰えるだろうか。さすがにこれは難しいか。

 

別に有料を渋っている訳ではなくて、意志でなく流れで過ごすのが嫌なだけ。あくまで焼き付いたものだけで書く意志。少なくとも刺激はいただいたからその分は返さねば。こちらはタイトル回収できた。

 

もう1つは刺激どころではなく非現実だったし、書く筋がいっぱいあって大変。神様のしごとと、なんとも言えない肯定感を軸にしようかと思っている。2つとも直接書かれているものではないけど、なんとなく辿りつけそうな予感。あとは中の言葉を見つけていくだけ。言葉に対してとても注意深いのは演出家の性質なのかドラマトゥルクの監修なのか。どちらもありそう。

 

美味しいなぁ。

 

ともあれ。

 

何もしていないようで、本は読んでいる。本読むだけならしていないと一緒か。というか、何かをしていると実感できる「行為」の定義とは。刑法上の行為は意思に基づく身体の動静。何かをしないことも犯罪になりうるから「静」も入っている。民法上の行為は法律行為になるのか。法律上の効果を欲してその効果が生じるように意思を表明すること。権利義務が問題だからこういうことになっている。行政法上だと行政行為が法律行為との異同で語られるけど、まぁいいか。

 

こういう諸々の行為論を取っ払った、素朴な行為となると人それぞれ。何か動機があって行為が在るという直線的な捉え方が一般的だろうけど、僕は動機という観念自体に懐疑的。確かに、誰かに説明するとか誰かを知ろうとするとき、その行為の理由を言語化するというのは人間関係で考えると納得できる。自分も他人も一貫した自分だと認識できるから。

 

僕はむしろそういう理に適った一貫性より、そこから逸脱した理由が説明できない行為の方が人の本質を示しているのではという立場。だから、行為に理由なんぞない。理由は自他に説明するための後付けでしかないという捉え方。

 

行為を結果と捉えるならば、結果が生じた後に原因を探求することはできるけど、これが原因だと決めたとしてもそれが実際結果になるかというとそうではない。例えば今日だらだらしていた僕はコーラが飲みたいなと思っていたけど、現実でコーラを買う行為をしなかった。動機の言語化は原因になりうる可能性の1つでしかない。

 

他人が自分のことをどう捉えるかも、行為を見るのが一番分かり易いけど、これも分かりやすいだけで、本当のことは分からない。分からなくて良い。

 

理由を探る行為は理解しようとすることだから、一概に悪いことではないけど。

 

やれやれ。

 

AIの本は読み終わってしまった。たぶん読み返さない。神経免疫学も本文は終わった。ここから学問としての入門的なのが始まるみたいだから楽しみ。今日の本は主体としての自分がたくさん場所を取っていてなかなか読みにくかった。

 

でも、この辺りが自分としてフラットなのだろうなとも思わなくはない。別に浮かないし非現実に囚われてもいないし、テンションで言えばほとんど低いから人と話したくもない。

 

ただ、これに対して何か罪悪感があったのが今までだけど、それで良いじゃんと思えるようになってきた。

 

おしまい。