発掘作業

 

 

 

仕事中は携帯使えないから電源を切っている。仕事が終わって電源を入れたら知らない番号から着信があった。で、スーパーで買い物した後に見たらさらにもう1件。かけ直してはないけど何だったのだろう。電話番号変えなきゃなぁ。最初に取得したときから変わってない。それほど誰かの歴史に残っている気もしないけど。仕事での通話慣れでうっかりかけ直そうかと思ってしまったけど、たぶんろくなことがないから思い留まって良かった。愛想よく話せる自負はあるけど、だからとて何を得るのか。人から収集するものは発語ではない。

 

エビフライが食べたくなったのでお惣菜を買った。あのスーパーだと刺身が高いし。自分で作れなくもないけど費用対効果が薄い。揚げ物作らないからサラダ油常備していなし、原価も高い。油はオリーブオイルとごま油しかない。和え物にも使えるけどサラダ油ではそうもいかない。

 

さておき。今日はストレートに潜る。

ついてきてみたい人だけ読んでみて。

 

ヘーゲルさんが脳髄とか頭蓋とかについてやたらと語っているのは、当時、頭蓋で人の傾向は決まるっていう説が流行っていたかららしい。提唱者はガルという人らしいけど、僕が知っているのは刑法学でのフォイエルバッハ。大学の時の講義で、教授が法医学系の人だったからだしたのだろうけど、かつて脳の骨格で犯罪傾向が強くなるっていう説が真面目に提唱されていたらしい。

 

こんなの現代では正しくないって思うだろうけど、アニメをやたらと見ている人が云々とか暴力的なフィクションを好む人は、とかが現代でも真面目に語られている以上一蹴はできない。この運命論とか影響論って物理世界にもともと持っているもの、あるいは精神世界がどう関係するかという話だと思うのだけど、傾向だけ突き詰めて何が得られるのかという素朴な疑問。

 

今って、人の物理的な傾向は遺伝と環境が錯綜していて良く分からないっていうことだと思う。この幅が個人。ただ、もっと科学が発達してもともと個人が持ち合わせている人格の幅が狭まったとき、人はどうなるだろう。これを不自由だと思うのかどうか。

 

僕は自分の人格が本当なのかのかも考察対象だから色々考えているのだけど。人格って、まず周りに決められるもの。○○はこうだよねぇって刷り込まれる。僕は公なところで発話を

あんまりしないから、大人しい人格だって言われてきた。自分って大人しいと評される人物なのかっていう学習。今となっては別にそこで発言する必要性を感じなかった人格だと観測しているけど。あと、なんでも受け入れるって最近同期に評されたことも、個人的にはそこはどうでも良い部分だからとなった。

 

まず、言葉で規定された自分の人格についてそのまま流用していないかを吟味しているか。僕の中身は全然大人しくないし、受け入れたいものしか受け入れようとしていない。日常的交信がどんどん駄目になっている。交信があるだけで繋がっているなんて嘘っぱち。

 

で、もう少し考えていくと、昨日の言葉が最初のルールだっていうのが現実感を帯びてくる。思い付きだけど、我ながら良く辿りついたなと自我自賛。自分をほめる必要はないけど否定をするのは禁止。たぶんだけど、自己否定があるから他人を否定できるような気がする。だから他己否定されたらその領分で相手を否定できる。かつて貴方はなんでいちいち私を否定してくるのですかって聞かれたけど、今思うと、貴方が僕を否定してくれたからということになりそう。

 

言葉がルールなのは、意図とは関係なく意味が付与されること。不自由で平等。言葉が人格を補強するのもそう。まさに自縄自縛。僕だけしか思っていないのかもしれないけど、言葉にできることは物理存在にあるものではなく、精神世界に在るものだろうと。これで言うと交流は相手の語彙に合わすよなと。僕の語彙に合わせて貰ったら、貴方の人格は本当にあなたが決めたものなのですかってなりそうで、これってソクラテス的に処刑されるやつ。

 

ところで、ルールを他人事にすると、法律学もより楽しくなってくる。家族法とか会社法とか全然駄目だったのだけど、自分の素朴な観念とは関係ないけど世の中ではそうなっていると距離を置けば、これはこれで。原付の筆記試験で何回も落ちた理由も分かった。ちゃんとどうでも良いものとしなかったから。何故ルールを収集しているかと言えば、素朴な自分にはルール観念がないからだろうなと。

 

自分ルールで見れば、それこそ人々のルールなんて無限だから見ていられないけど、他人と交流するルールに絞れば、なんとなく集約できる。義務がないところでどう振る舞うか。自分の中で義務を作ることも大事だと思うけど。

 

権利と義務の観念は法学以外ではどう捉えらているのだろう。道徳的に何かすべき、何か求められるべきみたいなことなのかね。権利と自由もややこしい。権利って何かを求める正当性か。自由は、求められても拒否して良い。義務はメリット。細かい話になると、もっと言語数が要る。

 

そうして、内心とか本心とはなんぞやっていう素朴な問題提起が芽生える。

 

これってかなり深淵のことだと思うのだけど、あんまりみんな気にしていない。

 

まず、自分の本心を言語で全て表現できるのか。思考はだいた言語で行われるけど、この言語化が自分を包括できているのかって。

 

僕は言語化したものは暴言も含めて全部本心と捉えられて良い。酔っぱらって発話したことも全て自分に還元される。こんなことを言い出すと無限に現実化できなかった言葉がある。

 

本心って、何の義務もないところで現実化された言葉で良いのかね。

 

問題提起で終わらせよう。

 

では、おやすみなさい。