自分の範囲

 

 

今日は髪を切りに行ってきた。理容院にはまだ影響はないらしい。理容院に影響が出る頃にはだいぶ終わっているだろうと言っていた。まぁそうだろうな。世の中が暗いとか某世界的スポーツ祭典が延期になっているとかは、話を合わせていた。特に後者は個人的にどうでも良い。

 

感染力が高くて、致死率が低い、そんでもって陰性だからと言って安心できるものではないというのはどうしようもないところはある。隔離もできないし、何処に行ってももはや関係ないだろう。人は移動せざるを得ないし、誰かと会わないなんてこともできない。インフルエンザの強化版っていうより、素朴な風邪の強化版のような。ストレス社会で免疫力が低下気味の人類にとっては天敵かもしれない。

 

陰謀論とかもあるようだけど、僕としてはガイア説(地球が1つの生命体である)から見た方が腑に落ちる。これって命の価値の平等性を突き詰めていくと分かるのだけど、人間の命だけが重いものではないとなると、地球の免疫作用なのかも。体力ある個体だけ残される。確か子供の死亡率って低かったような。ちなみに、僕は命の価値について明らかに依怙贔屓していることは自覚している。皆そうだと思うけど、だいたいてきとーな博愛主義掲げているよね。自分が重きを置きたい命にしか重きを置いていないのに。いや、別にこれが悪いこととは思わない。問題は自覚がないこと。だから同情が嫌なの。

 

さておき。

 

ついに夢に想い人が出てきて、現実を諦めたのだろうなと自覚した。良きこと。とは言え、別に生生しい話ではなくて、貴方は私に何をしたいのですかって問われて、すっぴんの顔に触れたい、あるいはハグですかねとか言っていた。僕は現実と非現実の間ぐらいに生息しているけど、だからこそ現実的な体が意味を持つ。たまたまお互いが肉を持っていて、接することができるというはそれだけで希少ではないか。というのは僕が共鳴を感じるのが死んでいる人に多いからだろうけど。

 

道具性の観念はハイデガーさんが上手く表現していたけど、人って他人を道具としてみなしていることが多い。僕は道具であることについてはどうでも良いけど、道具じゃないって言われて道具だろうなってなると。自己観からすれば自分の肉体も道具だ。意識と肉体のっ不一致って泥酔経験ある人なら普通に分かると思う。老化はこの延長にあるのだろうけど、僕はかつてもっと動けていたとか言わないと思う。

 

ともあれ。

 

アランさん文字数多いからなかなか読み終わらない。でも読んでいて良かったというか、やっぱりそうだなと思ったのは、「書くことは目覚めだ」って書いてくれていたこと。

 

これって、昨日の日記の冒頭にも繋がることだけど、自分が認識できているイメージと自分が書けることは全然一致していない。これって、観たように絵が描けないこととそんなに変わらないと思うのだけど、メール文化から発展した言葉は発話と一緒だとする人にはあんまり分からないだろうな。だからTwitterの言葉読んでいても面白くない。

 

この文脈の目覚めっていうのは、自分が知らなかったことで自分が発展することではなくて、自分を把握すること。分かっていると思っていることについてこんなに書けないのかとか。書けないことで何かが欠けるのかということではないけど、書けないことは不文律ではある。不文律であるってことは、根拠として何も説明できないことと等しいけど、あんまりここを気にしてない人が多い。呈示できたとしてもそれが一般的規律だったら自分の言葉ではないし。

 

という意味で、僕は自分が書く言葉の語義についてかなり気にしている。自分が気にしているだけで読んでいる人がこう捉えるのが正しいとは思っていないから、あんまり語義については聞かれない。自分がどう使っているのかと、相手がどう読むのかは別問題だし。

 

で、読むことも目覚めだと思う。趣味読書みたいに、読み物と自分との距離を置くなら分からないだろうけど、何かを読んだときに自分がどう捉えたのか自体が自分を発見することでは。

 

これで自覚したのだけど、僕は義務という概念に対してとても嫌悪感があると気付いた。義務にもいろいろ階層がある。例えば法的義務は意志に全然関係ない従うしかないものだけど、ここに応えられない人も多い。僕が法律学に共鳴したのはおそらくここにあるような。本当に嫌な義務がどこにあるのかと浮き彫りにするために。

 

本当に駄目なのは、強制力がない不文律の義務感。ほんとに山奥で育ったから、地域の不文律的な義務とかあったし、大阪出てからもそうだけど、ある一定の集団での不文律の義務というのはひしひしと感じた。今となってはだけど、こういう役割を演じろよみたいな空気感。

 

だから、想い人が返信してくれるときに「べき」を基準としているのが違和感で。僕がそういうことを強いているのではないかって。意志を大事にしている人が、なんで僕と接する時にへりくだっているのだろうって。もっと、本音で良いのではと想うのだけど、僕が本音を語ってもらえるくらいの立ち位置になれなったということだからしょうがない。

 

社交辞令じゃない言葉をもっと聞きたかったけど、社交辞令じゃない言葉を発したときどういった影響が返って来るかは分からないもの。個人的には全然価値的に重き置いてないですって言われた方がすっきりするのだけど。飲まないのも現実的に有用性がないからで問題ない。

 

まぁ、いちいち応える必然性がないのも確か。

 

でも、好きなんよね。

 

 

では、おやすみなさい。