偶然と必然

 

 

眠さという体感も不思議なもの。寝てないときもよりたくさん寝たときの方が眠い。休日にごろごろしていると眠くなって落ちるけど、これは睡眠不足なのか単に体勢に流されて寝たのか。隈を見れば前日の睡眠時間がどうかはなんとなく分かるけど、睡眠時間と元気とか収集率とか頭の回転はあまり相関してないような気がする。ライオンに追われるシマウマのようにストレスにされた方が必死に生き筋を探すから、なんらかの負荷があった方が良いのかもしれない。

 

シマウマの話は神経免疫学の、生物が生き残るには瞬間的なストレスが不可欠だったという話にあったこと。慢性的なストレスが良くないだけで、ストレス自体は悪くない。そういえば、なんだか頭痛いなって思うことが増えてきたけど、頭が痛くなかった時系列の方が良かったとも思わないなと。そんなに痛くないのかもしれないけど、痛さは比べられない。ただ、思考が阻害されるほどではないのが確か。思考が阻害される程痛いのは、火傷かだいぶ進行した歯痛くらい。

 

さておき。

 

買い物に出たのがちょうど夕方だったから、夕日と雲をスマホで撮ろうとしている人を見かけた。そこでふと思ったのが、人は美しさを保存する手段が発明されて初めて美を認識できるようになったのではないかって。僕は物より思い出派だから、保存しようとする衝動については分からないとこだけど。何を保存したかというのは、その人が現実のどの瞬間を切り取りたいのかあるいは、何を伝達したいかが発見される行為。この人が夕焼けの綺麗さを誰かと共有したいと思ったのか、自分がこういう綺麗な光景を見ていると伝達したいと思ったのかは知らないけど。

 

ごろごろしている時の方が不安だ。本を読んで色々考えている時の方が和らぐ。義務を消化しているのではなく、興味への供給でもなく、なんだろう、自分の頭がどこまでクリアになりうるのかのためか。と色々考えたところで別に理由なんてなくて、むしろ理由なぞ要らない行為。ごろごろするのにも理由はないけど、あんまり行為とは言えない。

 

客観的な自分と主観的な自分の乖離について考えるのは何故かというと、外から見える材料がどうしても一定方向の人物像を形作ってしまうから説明するのが面倒だというところ。法律系の資格の勉強を続けている=法律が好きだっていう評価が自動的に行われて、一定の人物像が勝手にできる訳で。面接でも聞かれるけど、僕は有事じゃなくて平時の世の中を回す、ある意味不文律のようなルール性が良きですって応えてみたけど、良く分からんって感じだった。

 

早瀬耕さんの小説で、戦時の国際基準を知らずに徴兵されることは、労働基準法を読まずに就職することだというフレーズがあって、え、そうなのって思った。労働基準法ってなかなかややこしい法律だけど、これって就活に必須なのかと。僕は諸事情で学生時分就活してないから分からないけど。道路交通法読まずに運転免許取ったみたいなレベルでは。あれは読まなくても良いように学科試験の問題が作られているけど、労基法なんて法学部でもそんなに読まない。まぁ僕の大学がアレだったからもしれないけど。

 

今となっては、僕が法学部に行ったのはたまたまで院試受かったのもたまたまだから、たまたま逢ったから、が主観的な評価。経済とか会計はなさそうだけど、文学とか心理学とか、もしかしたら理系の筋もあったかもしれないけど、どこを辿ってもここには来ていた気がする。進路でも無目的な人物で主体性がないようだけど、目的がないという主体性で良かったのだわ。一応文学部に行きたかったけど、進路相談の先生にやめとけって言われたのがターニングポイントだったのか。法学部なら潰しがきくって客観じゃなくてその先生の主観だったのかもしれない。

 

目的とか意義を探すのは不毛。

 

可能性の話ではこの学問に出逢えたことはまぁまぁ当たりだったような気がする。法律のルール性は典型事例以外ではとても曖昧で、言葉が確固したものではないということと、強制力がない道徳ルールはもっと曖昧だろうっていうところと。

 

言葉を分析するということは観念を分析するってことで、古典的哲学者さんはよくここまで分けているなぁって。観念を分析することは世界もとい自分を分析することにも等しい。目覚めの話とも近いけど、だからと言って何か生きやすくなるとか言った機能は全くない。

 

義務に返ってきて。素朴な義務って不文律での自分との約束くらいな意味しかないのかと思うと、「べき」についてそれほど敏感になるようなこともないのかなとも思う。これは存在の定義にも関わってくるけど、自分の存在を時系列でやや未来まで含めるとこの自分との約束としての義務が在りうる。でも、約束が確約できない約束って単なる負債的な義務ではと思うとやはり自分がその不文律の義務としての存在として置かれるのは嫌だなぁと思う訳で。でも、義務に存在の重みを持たせる効果があるとすれば、いや、それでも嫌ですわ。

 

この嫌悪感は、経験則から説明できないから本質なのかしら。だとしたら生きることに向いてないな。

 

僕は自分とは約束しないことにしたけど、それで何か不具合が生じていることもない。むしろ、素朴な寂しさとか素朴な自分の動きが観測できるようになった。これは自由なことだけど、寂しくもある。この寂しさが絶対的なものと自覚してしまうのはメリットなのかデメリットなのか。

 

では、皆さんがきちんと何かに結びついていますように。

 

良い夢を!