厳密

 卵が切れていたのに買い忘れていて一品多く作った。レンチン料理副菜2品。えのきしめじのゆかり醤油あえと、塩を振ってレンチンしたオクラにごま油と鰹節をかけて混ぜただけ。メインも食材を減らして豚肉とレンコンの炒め煮。美味しい。きのことゆかりはとても合うし、塩が利いたオクラも良き。ただちょっと時間オーバーかな。5分くらい。

 なんだか今日は気分が重くて仕事もあまりうまく行かなかったのは、出勤前に母親から着信が入っていたからな気がする。別に出勤前にかけてくる必要はないだろう、って。重くなった朝一発目。ちょうど米が切れていたけど、通話するコストの方が高いわと思って、今日は米を買うつもりだった。実際買った。

 何が重たいって、相手のルーティンがお構いなしなところ。関係とはそんなものかもしれないし、着信を残したところで相手には何も影響がないっていう観念はとてもエゴ的で健全だと思う。これが他人だったらそこに意志があるから余計に気にするような気がするけど。つまり、この場合折り返ししなければならないっていう義務が付加されて、どんな文脈で見ても僕は少し不自由になる。通話の内容も正月はいつ帰ってくるのかという話。一応、帰ったら本があんまり読めないって言ってみたけど、短い間でも帰ってこい、相談したいこともあるしと。

 いや、こういう観念って確かに分かる。家族に約束的はないけど当然の関係だから、ある程度は拘束できるし、主張しても良いって。約束がある関係について同じように思うはず。これが安定という不自由さ。自由は不安定にほぼ等しいってどこかで見たものの対偶。でも予測するに、相談ってきっと、僕の不自由を拡大する方向なのだろうなと推測できる。対価は前払いしているだろうって不文律。

 毎日自発的に継続する習慣がない人にとって、一日や二日欠けたところですぐ回復するだろうって他人事として見るのだろうけど、そんな機械みたいに反応を切り替えられないのが人間。悪いけど通話とか反応に対してのラグすらバグになるくらいに緻密に構築している。通話も徒歩帰宅の道中にしたかった。ほんとに悪い奴だわ。感謝はないのかと。自分の命の継続に重きを置いて居れば、それを担ってくれたということに対して感謝するのだろうけど、残念ながら僕は自分の命にはそんなに重きを置いていない。命を前提として命が継続するならというだけ。申し訳ないけど。

 時間性を時計基準にするなら、相手が自分に使った時間について感謝すべきで、使ってくれるのが当然だとは思うべきではないのではというのが自分の観念。だから時間を片手間でも惰性でも義務でもなく自分に使ってくれたことは貴重だなって思う。すべきの考え方も嫌いだけど。

 こういう義務感を背景にした相手をコントロールしようとする打算って醜い。

 ちょうど仕事でクレームがあって、怒りについて考えていたのだけど、怒りって不自由性の発露なのかなと。自分ができないことにお金を払ってできるようにしたいのになんでできないのだという感情。自分ができないのであればたとえお金払っていても当人が優位な立場にはなれない気がするけど、資本主義が社会をそういう風にしたということなのかね。なんだか不自然。自分の思い通りにならないって本当に不自由なのか。ただ、関係自体が不自然であるという考え方も有り。拘束っていう概念でなくても互いに観測者だから観測者によって自分が変わってしまう訳で。

 与えることができる総量より奪ってしまう総量の方が多いのが関係だろうなと思う。自分がそうしたいからという自由は対人には適用できないというのが実感。奪っても良いよって許可が必要。まぁ関係を信じているかというと微妙なところだけど。とにかく奪いながら生きるしかない。僕には誰かに与えられるものなんてほとんどないし。

 さておき。卵は買い忘れたけど本は買い忘れなかった。昨日の物理学のやつ。ぱらぱらめくっていたら時間は存在しないっていう章があったからこれは買うしかないなと。まだ最初の方だけど、面白いのが哲学界隈では絶賛されているアリストテレスプラトンが物理学の進捗を阻害した戦犯みたいに評されていること。世界には人間と同じように目的があるって言って、デモクリトスの原子論を批判したとかなんとか。目的じゃ分かりにくいけど善悪でという意味。善悪で分けないと自己判断が必要になるから理性で世界を観察するのは人類には早くて。ただ、今の人類にも早いのかもしれない。

 素朴な観念に善悪を置いている人は多い。だって分かり易いもの。自分にとって都合が良いかどうかで分けることを前提として世界の善悪を分けるのが通常形態なのかな。自分が悪いと思うことをする人は悪い人で、他人事的に見るだけ。自分が共感できる部分があれば宥恕するけど、基準は主観にしかない。

 僕の主観だと、善悪を決められるのは、自分が善だって確信できるからだけど、この確信ってどこから来たのかというと外からであって、自分ではなかろうと。主観でちゃんと生きている人は善悪をさほど気にしない。自分にとっての良き悪きが善悪とは関係ないことを知っている。

結論。今度告白の機会があるとすれば、あなたの時間を奪っても良いですかになる。好きと評するってこのくらいの覚悟が要るでしょう。

 

おしまい。

 

いつの間にか一週間も終わり。

 

おやすみなさい。