根っこ

 

 

 

なんだか時々知らない人から星を付けていただく。物珍しいので追うのだけど僕の礼儀が皆無なので関係は巻き起こらない。偶々石の現代アート、良きだと思います。作意も作為もないという偶々石を制作した時の流れのような語呂の良さも。

 

涙腺ダムは結局の所、寝る前に想い人の穏やかな日記を読んで悲しき方向に決壊した。やはり閉じるべきだなと。おー、枕を濡らしているわーと他人事のように寝入って目覚めた本日はやたらとすっきりしている不思議。睡眠のリセット能力と朝の脳の楽観性は半端ない。別に冷たく評価されても関係ないから好きなことをすればよかろうよと。そういう風に生きるために調整してきたのだから。

 

調整というとこの事態の関係でインスタント異動になるかもしれない。現実的に派遣の身ではそんなに融通利かないだろうと思うのと、変化を求める衝動はどちらも本心。現実世界ではパソコンと本さえあればどこでも生きていけるだろうし。万が一そうなると結局はどの本を持って行くかの厳選が最重要事項。今読んでいる本と、過去問関係と、赤青本を持って行くと決めた。コンパクトで良かった。

 

世界線としては2割くらいしかありえないことだけど、仮に、の世界よりはありうる世界。

 

世界の不確かさ。

 

子供の頃に感じていた暗がりへの漠然とした不安は未知への不安で、大人になればある程度解消されるものだと思っていたけど、世界はちっとも明らかではないし、大人ですら少々の不安で揺らいでしまう現実世界。結局何か何処かで決めるしかない。自由であることは不安で寂しいことなのである。

 

世界において確固したものは自分に刻まれた記録だけ。

 

さておき。

 

月と疎遠な生活週間のせいで綺麗どころを見逃してしまった。月の引力は人間の精神に作用する存在だから、昨日の悲しさはそういうことだったのかもしれないという事後評価、ただ、僕はあんまり目立たない形の月も見ているし好きだから、一番際立つ時を見逃したのも縁なのかなぁと思う。だからとて、月の美しさは変わらない。

 

僕が感じたことを正しいとする素朴な感覚を鈍麻させる形で一般的な価値観が後付けされているから、自分の感覚は思い込みなのだろうなって思う感覚が否めない。だいたい否定されてきたし。

 

まぁ言語化が拙かったというのもあるし、伝える気もなかったからだろうけど。一番は反射的な反応が鈍いところ。自分が他人との会話のテンポがおかしいのは知っている。随分馴れてきたけど。

 

そうして、僕に刻まれた記録の話。

 

想い人の泣かされた日記の中に、同居人と生活を共にしてっていうフレーズがあって、昨日の僕はそこにいる同居人さんが羨ましいなと刹那的に思ったのだけど、今日の僕は違うことを思った。いや、想い人が穏やかな生活できていればそれは良いことだろうと。僕は誰かと生活することに向いていないのだから。向いてないとも違うか。

 

それとは別に、「生活」という単語に記録されていた出来事が想起された。中学生の時に女の子から恋文を貰ったという話は書いたと思うけど、その中に、一緒に生活していて好きになりましたっていうフレーズがあった。それをお前ら同棲していたのかみたいにからかわれたなと。語義としては学校「生活」だから間違ってはない。ただ、ここで教訓とすべきは、生活の観念もややズレがあるということ。からかった人の観念での生活は夫婦生活とか内側の領域だったのだろうなと。

 

この出来事が僕の歴史の中で自覚的な影響を持っていることはないのだけど、自分の頭の中で再現できる記録ってどういった基準なのだろうとは思う。勝手にセーブポイントと呼んでいる。認識をやり直せるという意味で。

 

ところで、村上さん枠は神の子は、、を読んでいるのだけど、とても読みやすい。根元にある矛盾なんてまさにタイムリー。矛盾は現実的には選ぶしかないものだけど、現実にならない限りは遊ばせて良い。

 

記録を再現する時の自分は主観的なのか客観的なのかをアンケートを取りたいところ。情報は主観的だけど、出来事は主観も客観も両方できる。もう距離が離れているし。最後に父親と交わした言葉も情けなくてどうしようもない自分を俯瞰している。誰かに最後があったってことは当然自分にもあるということ。

 

もっと自分の言葉を遣えば良いような気もしてくる。この自分になったから想い人のことを好きで居られるという惚気。ただ、引き際は心得ないとと思う。

 

何か対価関係がないと肯定されない観念は分かる。その対価を費やすことがいわゆる暖かと混同されている。

 

対価関係なきところで個人的には十分温かく生きているみたいです。現実的な温度はないけど。

 

おしまい。

 

皆さんそれぞれ暖かな生活を。

 

おやすみなさい。