涙腺ダム

 

 

文章がへたくそでいかん。まぁそんなことはわかりきっているから問題ない。問題がありすぎる問題ない。免疫力低下か、いや、そんなこともないか。

 

人は相変わらず多い。散歩やジョギングは自粛の対象にあらずっていうのは、理屈としては分かるけど、政府が対象としているのは集団感染だから、個別的感染のリスクは外に出る限りあると思うのだけど、そこは個々人でどうでも良いのかな。僕はどうでも良い派だけど、散歩は1人でするな。近所の人なら安全という愛着思想だろうか。

 

筍が届いた。茹でたのもあったけど、祖母と母の掘りたてほやほやのが3本。多すぎる。誰かにプレゼントするのかもしれないと穿ったらしい。いや、プレゼントが筍って仮に恋人がいても、いやそれなら調理すれば良いか。時短の関係で上司がお弁当作って副業すればって冗談で言っていたけど、これもまたハードル高過ぎるだろうよ。僕の料理見たことないのにそんなに安全そうに見えるのか。前の前の職場ではエビチリとハンバーグとスイートポテトは同僚達に振る舞ったことはあるけど(もちろん無償)、特に違和感はなかったみたい。もう1つの筋は、それほど考えた発言ではないというもの。

 

なんだか、この上司の何気ない一言と、今日の母親との通話で、なかなか悲しい気分になっている。まぁその通りというか、僕の感性と常識は随分違うから、やはりあんまり他人と関係すべきではなかろうなと思って。

 

上司の方は、僕の家族構成を聞いてきて、妹は枚方、いや茨木でしたという住所地の曖昧さと、この事態でも連絡を取ってないのが空気で伝わって、「冷たいな」と言われた。

母親の方は、もろもろ話した後にこんな事態で心配になるからラインはちゃんと返してくれという主張。

 

あぁ、欠けていてごめんなさいという感じ。ただ、僕はこのものさしで生きた自分がそれほど相手のことを想っていたとは思えないので、もう多分無理だ。

 

「冷たい」という評価だけど、確かに連絡を密に取り合うことが親密な関係だっていう価値基準を前提とすれば、僕はとても冷たい。甘んじて受け入れよう。これはたとえ交信が頻繁だとしても親密さを感じないということだし。

 

ただ、素朴な感性的な自分がこのものさしに疑義を唱える。関係はそもそも個別的なものだから、一般論で傍観視して評価できるものではないだろうと。僕はこの一般論的なものさしで密になっている関係に対してはそうなのだろうなと思うだけで、僕の素朴なものさしと違うだろうって疑義を唱えたりはしない。だからって多勢の価値観で素朴な関係論を一方的に評価されると、ごめんなさいってなる。

 

僕は姉とも妹とも交信はしないけど、これはどんなっても知らんわっていう感覚ではなくて、いちいち生存確認しなくても勝手に上手く生きているだろうし、わざわざそんな確認を取るために相手の可処分時間削ることもないなというだけ。一緒に不安がるっていう共感の枠はそれぞれ旦那さんが居るし。

 

書いていて思うけど、確かに冷たいな。僕にとってどうでも良いではなく、姉妹にとって僕がどうでも良いだろうという意味で。僕の存在が誰かに与える効果についてとても無頓着。なんというか、だいたい代替性あるよなと。

 

それでも、連絡を密にすることが情愛だっていう観念には反発したいのが「心配」の観念。僕はむかーし同棲していた人に連絡を密にすることを要請したことがあるのだけど、これって振り返って相手のことを想っている訳ではなくて、結局自分の不安感の解消の為に相手を消費する心の動きだと思った。ここでの相手の存在は相手そのものではなくて、自分の中にある相手像でしかない。

 

ただ、事後的に心配だったくらいなら問題ない。相手の存在を操作せずにただ想う感覚だから。

 

細かい話だけど、この辺りには命とは何かっていうどうしようもなく個別的な定義と繋がっている。個別的なものさしの中の命には必然的に軽重があるのに、この軽重を汎化している。

 

存在に対して操作性があることを密というのかもしれないともふと思った。操作性なのか対価なのかなんなのかは知らないけど、自分と同じ重さとして他人と関係することなんて不可能だから外付けのものさしで帳尻を合わせているのかもしれない。他人はいつ自分の世界から脱落してもおかしくないもの。自分が脱落すれば世界は終わるけど。

 

ところで、社会美学の本が面白いなって思うのは、感性で生きるとか言っていてもあくまで小さな社会をゲストとして観察して綺麗だなって描写していること。そりゃあ来訪者だったらどんな文化に身を置いても匿名だから自由に感じることはできるし、その文化の中の人は自分がしていることに対して感性なんて働かない。

 

そうこうして、やっと辿りついた素朴な感性だけど、冷たいと評価されるものでしかないのはやや虚しい。別に、前提が違う人に説明する気もないけど、僕は誰にとっても冷たい人でしかないのかと思うと、やや存在意義に動揺が起こる。

 

そういうことなら、閉じても良いかなって。

 

なんだかややこしいのでまとめると、要は、僕が暖かさを感じるところは密であるとか何かを費やしてもらったところではないということ。僕が費やすのは別に暖かさのためでもない。

 

この方向性を突き詰めたら誰か個別的な人との現実的生活なんてないだろうなと思って悲しいけど、しょうがないな。

 

では、皆さんが暖かく在りますように。

 

おしまい。