ざっくばらん

 

 

 

土日はあまり上手いこといかない、なんてこともない模様。事務作業がいくつか残っているけど放っておいても勝手にやるだろうし。精神的に落ちているかというとそうでもなく。なんとなくふわふわというかそわそわしているけど、これも僕の物理とは関係ない。開き直りが足りない。

 

本は読んでいる。なんか手を見つめる、という短編集の1本目終わった。確かに好きな人の手に浮かぶ静脈というのは記憶に残るものだ。という意味での記憶が薄れていくことも。おそらく記憶の一般的な効用はここだろう。あくまで人格は確立したもので、記憶は外にあるもの。

 

開き直って考える。僕が本を読むのは、たぶん、認識の更新を更新するため。世界は認識によって構成される。認識は世界に対する認識というよりは、自分に対する認識。素朴な認識論において、僕が動機に基づいて行動しているようには思えないし、動機は自分から生まれるものではなくて、世界から規定されるもの。例えば髭を剃らないと社会的に悪い立場に置かれるし、肌が汚いのも印象悪いから、肌に優しい電動髭剃りを買うとか。

 

動機が自分の原動力になる世界では生きられないと諦めると、無駄に記録が鮮明になる。ほんとに年齢を重ねていけば記録が薄れるなんてことあるのか。確かに、20代のほとんどはまどろんだ時期で、全然何も覚えられなくて、精神的にもかなり危機的時期だったように観測される。関係の中にしか自分は居ないのかという観念は、要は、相手が認識する僕しか存在を許されていないということが意味されていた。

 

想い人だけだと思う、存在として認識してくれいそうなのは。他はあくまで、観測された僕が当人を害する範疇にないから受け入れらているということ、。別に害することはないけど、どこまで許されるのかは分からないからなぁ。例えば自殺とかどうだろう。これもする気はないけど。

 

 

ともあれ。これだけだと、単なる自分探しになりそうなので認識の話をこまかく。

 

哲学本は、こういう考え方の人が居たんだみたいに生ぬるくは読んでいない。時代時代で一般的認識論から発展させようとした歴史だから。歴史と言えば、ハイデガーさんの存在と時間は前に読んでいた人が線を引いていて、この人は何を考えながらこの本を読んでいたのだろうと馳せる。現存性に注視していたみたいで、現存性というのは近さが含まれているとのこと。ラジオで空間の隔たりが埋まったというのは、まさに認識の更新だったのだろう。空間の隔たりは認識できる範囲と直結している。ここで素朴な僕が思うことは、隔たりがあるからこそ認識できる関係もあるのではというところ。

 

隔たりの認識と言えば、日本史の本。鎌倉時代、京都鎌倉間は一般人では134日かかったらしい。何処かに行く時間がこれくらいかかる認識が今の認識と一致しているはずがない。僕の最初の会いたい人に会う距離感の観念はド田舎で子供の足では大冒険だったから、割と寛容ではある。

 

飲み歩いていた時代、泥酔状態でも家に帰りたくなって、終電後にめちゃめちゃ迷って歩いていたのを思い出した。なかなか幻想的なところに辿りついたりしたけど、あれは本当に現実だったのかも知らない。ちゃんと家に着いて筋肉痛にはなっていたからおそらく現実なのだろう。怪我はあんまりしなかった。青あざはまぁまぁあったけど。酔って性欲が増すってきっと嘘だと思っている。酔ったときは1人で寝たい。添い寝なら良いけど。

 

認識の実用的な作用。心理学はてきとうに読み流したけど、自分が分からなかったことがなんとなく分かるようになってきた。英語とか数学とかコンピュータとか、読んでいてもあまり違和感がないくらいには。読み重ねるほどに分かってくる。ここでの認識は、自分にはそれができない、分からないという自他からの枷を抜くこと。

 

そうやって自分のことが分かるようにもなってきた。こんなこと社会では話せないのでここだけね。何か専門的な本を読んでいるって言ったら動機はなんなんだって面倒に尋問されるから。

 

あと、存在の話だけど、人が僕ほどに認識を更新するものではないとしたら、というかそういうのものだから、あまり過敏に思わなくていいのかなと。僕の日記読んで何か実践してみましたっていう報告ほとんど聞いたことないし。

 

もう一個あったけど、抜けてしまったので、ここまで。

 

では、皆さんがちゃんと生きていますように。