怒りの使い方

 

 

 

職場で支給されているマスクがなくなって、一瞬帰らされるかどうかという話になった。そこで、本来は自分で用意するものだとか、ちょっとは自分で用意すれば(冗談交じり)、みたいな言い回しがあったことで僕は割とカチンときてしまった。

 

何故そうなったのかというと、なんというか最初は働くときにはなるべくマスク着用して下さいっていうお触れであって特に強制力はなかったのだけど、そのうち強制力がなんとなく生まれ、今やこのご時世の雰囲気で持参するのが当たり前でしょうということになっていること。確かに電車に乗って通勤しなきゃならない人は自分のために用意して仕事でも流用するのだろうけど、徒歩通勤、休みの日も徒歩圏内でしか移動しない、誰とも会わない僕の中でリスク高いのは仕事時間だけだから、別に用意する必要がなかったというだけ。だったら雰囲気で行動させるのではなく業務命令でちゃんと用意しろと指示したら良い。

 

このカチンは昼休みにネットでさっさと注文する方向にいった。150枚。使われずに残って楽天のポイントを全部使って300円くらいにはなったけど。明日には届く。いちいち気にするのも鬱陶しいので。もっと開き直って電車移動もしようかと反発したくなる。この腹の立ち具合はきっと共感されない。

 

リスク高い行為のガイドラインもちらっと見たけど、もっとも良くないことは会食らしい。いまやコンビニやスーパーもフィルム越し。電車より遥かに悪いように書かれていた。けど、職場の休憩時間を眺めると平気で向き合ってご飯を食べている。ルーティーンというのはどうしようもないのだろうな。悪いと言われているのにやめられない。いや、職場の見知った人なら安全だという認識があるのか。なんだか関係性における一般論が揺らいでいる。

 

会うことで積まれる関係性が塞がれたとき、内側の関係ではないやや内側の関係がどうなるのか。空間と時間の占有率が高い人に重きが置かれているはずで、仕事でも趣味でも腐れ縁でもなかったら内側に寄るはず。なんだか曖昧に人は皆平等だし価値があるっていうまやかしが、はっきり何処までえこひいきできるのかという形で顕在化している観。相手のことは良く知らないし保有しているか分からないから相手にマスクを付けさせたいということ。

 

でも、そんなのこれが顕在化する前から当たり前だったと思う。自分にとって害がない安全圏だったから、認識されないという意味での人一般の存在価値かと。

 

不潔な人にはあまり近寄りたくないという観念に、マスクをしていない人には近寄りたくないという観念が追加されただけ。

 

たぶん、自分が誰かに感染させてしまうかもしれないって思っている人はほとんど居ないんじゃないかな。

 

いったん置いておいて。

 

カントさんの解説パートは時間の客観性の話になった。何か仕事をして時間が早く流れたと主観的に感じたとしても、客観的に流れた時間を振り返ることができることから客観性を論証しているのだけど、これで納得できる人の方が多いのだろうかと主観的に疑問である。

 

反論。そもそもこの客観的時間って、客観的な時間に合わせて生きなければならないっていう学習ではないか。カントさんの時代の社会のルーティーンがどうなっていたかは知らないけど、朝起きて夜眠るとか、時計に合わせて行動も合わせるという時間に対する観念は後付けだとしか思われない。時間の観念で誰かと合わせなきゃならない時にまさに時間は客観的な意味を持つけど、これが経験の前にある観念だっていうのはおかしくないか。

 

時間は無為に流れるというのは、おそらく社会的な事情もあるし個人的な事情もあるのだろうけど。僕は、時間は主観的にしか流れないものだし、むしろ時間という区切り自体ないのがアプリオリだと思っている。単位時間を客観で設定するのは問題なくて、ただ、その客観的な単位時間の中でどれだけ主観的な時間を過ごすのかの方が、客観的な時間性より大事なこと。

 

そもそも時間ってなんだろうと、誕生日を誰にもメルマガ以外誰にも祝われない日がもう終わる日に考える。いや、これって僕が望んだ世界だから問題は全くない。僕は人の誕生日を勝手に祝うけど、別に自分の時節なんてどうでも良くて。価値という意味ではやや分からなくなるけども。自分の誕生日に重きを置いている人が好ましい人の誕生日がどうかみたいな公平性という意味で。もっと勝手に生きねば。

 

そうして、僕はこのご時世に対してとても生きやすさを感じているのも確かで。

 

誰とも直に接しなくても良いしって思う時点でだいぶ欠けている。昨日の日記の誰もが僕を要らなくなるっていう観念は鏡で、むしろ僕に原因があるのだろうなという解釈。でなくては定型文みたいな別れ文句が色んな人から出てくる訳がないし。

 

ではここまで。

 

おしまいでおやすみなさい。