結束

 日付と記憶を結びつけることに疎いと書いたけど、代わりに文字と記憶の結びつきは分かちがたいらしい。今日仕事中に見かけた某県の某区の字面だけでそれにまつわる記憶が氾濫して1人で苦笑いしていた。言葉から受ける心象の引き出しはやすやすと時空を超える。これはもう、僕の中の言葉にそれぞれの人の専有空間があるがあるに等しい。心の中に空間があるのかというのは1つの思考領域ではあると思われる。空間だとしたらさぞかし窮屈なような。

 空間でないとしたら、量子的であるような、というのが発想。誰かとの思い出は、それを思い出さないときに在るのかないのか。ある刺激(思い出そうとすることを含む)があれば在るけどなければないなら、その瞬間にはないのでは。思い出そうとする意志が想いだとすれば、人の頭は外界に対する知覚の刺激と想いの混在だろう。自分の頭の中が客観的だと思っている人はきっといないはず。

 さておき。というか、休憩中に立ち読みしていて面白いと思った本はまたしても時間の話だった、時間と何かの話。ぱらぱら見ていて、記憶は改竄されるものだっていうのがなかなか。僕は自分の記憶についてはなるべく今の自分から色を付けずに観測しているから、記憶の中にある出来事が今の自分にとって良きもの悪しきものっていう観念はない。これがなくても記憶として再現される心象なんて、依って立つものではないと思っている。ある意味趣味的に転がして喜怒哀楽する娯楽みたいなもの。

 昨日だっけの省略版で、人間は未来を予測できないから希望を抱けるのだっていう説があったけど、これってもう少し掘り下げると、現在を起点として過去は既知で未来は未知っていう切り分けがある。でも、僕の自意識だと、自分は過去の結晶だとしても、過去も未知ではないかと感じる訳。自分の過去から何が読み取れるかは現在進行形で移り変わる。そういう実感を持っていなくても、嫌だった過去がまぁまぁええかなって解釈するのはあくまで今じゃない?

 ところで、好きとはなんぞやみたいなことも書いたけど、世界は主観的でしかないっていう考え方だと一般論の方が正しい。想う相手が幸せであるためには、自分の世界として観測できる領域で幸せでないといけない訳で。一般論としていながらあれは過去の僕に対する自戒なのだけど、意志で縁を捻じ曲げるなんて呪い臭い。

 ただ、こういう観念の人って、世界は客観的だと思っている。世界は客観的だから、自分の主観的世界が客観的だって。僕の呪い的執着とはちょっと違うけど。なんだかわかりにくくなったので、もう少し簡略化して。自分の死後も世界は続くかという問に対して、そりゃあ続くだろうっていう観念のこと。なんとなく正しいように思う。捉え方としては1つの真理とも。

 ただ、この自分不在で続く世界が真なら、もっとその人は自由であるはずではと思う。要は客観的世界と主観的世界が無関係だとすれば、客観的世界にあえて合わして生きる必要は何処にあるのかという話。アカシックレコードに従った生物感。倫理とか空気に従ったレールの上に乗って生きることなのかな。だから、自分の感情も客観的に言葉にできて共感されるものだする。まぁこの生き方に対して疑義を唱える訳でもないけど。

 僕は、自分が死んだら世界は消滅すると捉えている。世界は主観でしかない。地球が滅亡するとか宇宙が消えるとかではもちろんない。誰かの世界は僕の死とは関係なく続いていく。それが想い合った最愛の人でも。要は、世界が在ると認識できるのは主観でしかないということ。この認識を客観に投げるのはある意味文化への依存だろうなと。

 この世界観だと、客観的に在るけど実際には見えない観念の死角みたいなものは世界に含まれない。自分の世界ではない客観的世界は確かにあるけど、自分が生きている世界は客観的に在るものだという捉え方とは違う。例えば、点字って日常生活で見かけるけど、目が見える人にはただの風景でしかない。風景としての世界と、世界を認識する術という違いは客観的なのか。五感が同じく稼働できていて、同じ日本の文化で生きている相手と何かの事象を経験したとして、それを開示したとしても完全に一致することはない。

 この誤差は自分視点で見れば相手が注視するものが違うくらいで済むのかもしれないけど、注視するものが違うというのは主観的世界のずれだと思う訳で。このズレが個体差だと思うのは、客観的世界観に侵食されている。自分の世界しかないのに、基準を標準に設定している。

 そういえば、量子論は今の所過渡で、事象とは関係でしかないとしか言えないらしい。関係とはなんぞやっていう素朴なところからみると、絶対的な自分なんてどこにもないよなと。言葉自体が関係で培ったものだし、自分の思考のどれもが過去の関係がないと成り立たないもの。再現はできなくても脳は勝手に学習している。自分が自分であるっていう観念も、相対的に感覚が多いってくらいでしかないのかもしれない。誰かと関係したときしか自己観は生まれないって考えると、確かにそうだなと。

僕は自分勝手論だから関係に至ってない人からメッセージがあるといちいちにやにやするし(公的にも私的にも義務がないから)、僕が送るメッセージに対して何かポジティブに受け取ってくれていたらありがたいなと願う。これは世界の外。世界の外に対する欲求が祈りになるのかどうなのか。忘れられたくないっていう世界観も主観的世界観の一部なのかも。僕は誰かの中に構築された自分の像に対して、なんか申し訳ないなぁと思う世界観。

 

では、おしまい。

 

 

皆さんが上限いっぱいに満たされますように。