手が掴めるもの

 

 

 

パイプオルガンを聴きながらご飯を作ることがマイブームになりそう。タイトルは見ていないけど、聞いたことがある音ばかり。僕との交信の時に流れる音というのは分からないけど、なかなか親和性はあるかもしれない。そうして讃美歌なのかな、が流れてきて、記録が掘り起こされた。

 

僕は一度だけキリスト教式の葬儀に参列したことがある。ひいおばあちゃんなのか、どういう血縁があるのかも定かではない、小学校高学年くらいだった思うけど、自分がそのときどれくらい大きかったかは問題ない。なんだか明るい開けた式だったイメージ。その時歌った時の曲だった。同じ輪廻でも仏教式とはずいぶん違う。

 

仏教式は高校3年生の父のが今の所最後だけど、悲しいというより儀式への緊張感で大変だった。左手で棺の釘を打たなきゃならないのにうっかり右手でしてしまった恥。確かその時の自分は寝癖のままだったと、俯瞰的記録的心象風景。

 

社会美には儀式が含まれるとの話を読んだ。飲み会とか、社会の中で個人が薄まることで個人が関係の中に美を見出すとか。僕はこれにはちっとも共感できないのだけど、やっとというかついにというか、読み終わってしまったアランさんの美の体系にもそういったことが書かれている。僕は自分が参加者でない限りという留保付きでなら社会は時々美しいと感じることはできる。

 

さておき。

 

昨日注文して今日届いたマスクは、某国産だけどやっつけ仕事にしてはちゃんとしている。改めてすげぇ物流システムだ。配送業者さんも届けてくれた瞬間小走りで立ち去ってかなり忙殺されているのだろう。ありがたや。枚数が少々足りなくても問題ない。

 

届く前に家に唯一残ったマスクをして仕事に行ったら、ちょっとは自分で用意しろと言った上司がやっと危機感を感じたかと言って来て、そうじゃないと答える代わりいちいち気にするのが面倒なのでと答えた。なんとなく心身が一致してきた感。

 

150枚だけどの50枚が1袋まとまりで1箱だから開いてしまったものは駄目だけど、これで2人には配ることができるストックができた。別に施しの精神がある訳ではない。けど、余っているなら別に誰かにあげることは問題ない。相手は当然選ぶけれど。マスクで安心できるならそれは良きこと。

 

危機感を感じたのかという言に反発を感じてしまうのは、きっと、自分が感じていることを貴方も感じているでしょうという同調傾向にある。要は、自分のものさしで相手もそういうものだと決めること。僕もやってきたし、人を捉えるときが特にこの傾向が拭いきれないけど、やや脱してはきている。

 

例えば、当たり付きの自販機で何かが当たったとしたら誰にあげようかなって思っている。これは、当たりが余りだから。コンビニのくじでジュースとかお菓子が当たってもだいたい交換期限が過ぎてしまう。そのコンビニには行くけど、要らないものは要らない。普段買う範疇の物でなければ誰かにあげていた。

 

これって、貰えるものなら貰っておこうみたいな観念がないというより、その為に自分が影響されることが嫌だから。ポイントの為にお金を余計に使うみたいな感覚と等価。まぁまぁ人間の本質だと思われるけど、その行動は自分の可処分時間と空間を削る行為だと思う。

 

そうして、もし想い人に会えたらという下りで会社からもらった某カフェのポイントカード、じゃないな図書カードみたいなやつをあげようと想像していた。僕は行かないけど彼の人は行きそうだからというだけの動機で。貰ったものを使うことと、使うために動かなきゃいけないことは前者の方が軽い。まぁいまや閉まっているからなんとかの餅だし。あと、想い人はこれをあげても無駄に返そうとは思わない人だろうなと思ったし。一番は、他に渡そうと思える人が居ないからだけど。僕は要らないのでってどうでも良い人に渡したらきっと言葉で感謝の意を示して内心ラッキーとなるだけだから、同じラッキーなら配分したい人にしたい。想い人であれば単なるラッキーと感知されて良い。

 

 

僕が配れないのは、共鳴とか占有率かなとも思う。だからこうなった。

 

 

やれやれ。

 

ご時世からすれば申し訳ないけど、僕はここを楽だと感じている。あぁステッカーは欲しかったな。物欲とも違うけど、つんつるてんのシールになってしまったモノが日記を書いているといつも目に入る。

 

なんだっけ。

冷静になってしまった。

 

時間の主観性について昨日の日記の訂正の話があったような気がするけど、もういいか。

今日はここまで。

 

では、皆さんの不安が和らぎますように。

 

おしまい。