どこかとなにかのあいだ

 

 

 

タイスの瞑想曲。春のふわふわ。

 

いつものように恋文を送ってふわふわした気分で寝たら、夢に姉と妹らしき人(人に対する認識もがばい)が出てきて「あんたは一生失敗し続ける」という呪詛をいただいた。その世界線の僕は何故か音楽をやっていてそりゃあそうだと俯瞰する自分。まぁなんというか、このフレーズって発話者が思う程呪詛ではないよなと、その夢の中の自分も迫力満点の発話者に対して惚けていた。

 

失敗は何か正解があるという前提で、テストみたいにそれに従えばマルという世界観であれば失敗は良くないことで、そのマルを踏み外さないように生きなければ一生失敗し続けるはず。確かにその通りだ。ただ、正解が成功になる訳でもなく。あと、正しさは後から更新されるものであるという観念。それを失敗とは呼ばないのかもしれないけど、後悔はきっと僕の中では失敗に含まれる。ということで僕は別に失敗を悪い意味で捉えてない。

 

正解は自分の今にしかないし更新され続けるものだから、僕の人生において失敗がないことなんてない。

 

 

そういえば、レンゲの絨毯はとてもきれいに染まっている。あと、躑躅の花が咲いていてツツジのフォルムといい漢字のやたらと難しいところといい、とても好きだ。地元の公園でいっぱい咲いていたような。あと、藤とか紫陽花も好き。自然は世間と関係なく滞りなく営まれている。やたらと臭い野草も生えてきていて、なかなかいい感じ。

 

このご時世で1つ事務手続きが増えた。免許の更新が延長できるらしいから郵送で処理する。わざわざ行きたくもないところに行って人と密集したくないので。めんどくさいという感覚より、行政手続法の具体的世界だと、割とほくほくしている。厳密には政令の具体化だからやや違うけど。

 

マスク必須は、耳の負担に回復が追い付かなくなっているけど、いちいち楽しんでいる顔が見えないのが良い。しかしこれも語意のことで、僕は安心だから楽しいとか楽だから楽しいみたいなところで楽しいを遣っていない。自分がヤバい状況でも実は楽しんでいるような気がする。

 

楽しいとは別に申し訳ないけど、今の日常はまぁまぁ居心地が良いという感じもあって。例えば、今日はたまたま同期と帰りのロッカーでタイミングが合って、喫煙スペース無くなったけど、どこで煙草吸っていますかって話題を振ってみたら、膨大な発話量が返ってきた。僕は吸えるところが多少遠くなっても歩いていくからあんまり気にならないけど、なんだか、人ってこのご時世で他人に話したいことが溜まっているのかもと想像。

 

居心地の良さは、他人との物理的距離感にある。人と距離を置いて並ぶことで他の人がその間を通ることができるし、相手の手に触らないように会計をしてくれるところとか、変な話やればできるじゃんって思う。このなんとなく物理的に近いことが親近感だった当たり前の世界観は失敗だったってことでは。公園での集まりも濃厚接触の定義が更新されたみたいだから減っていくかも。素朴な僕としては、普通の人は世界を外から定義していたのかという疑問。パーソナルスペースも誰かが決めたものだったのかいなと。僕なぞ想い人の手に触れる機会はあったのに畏れ多くてあえて偶然を装ってすら触れなかったというのに。

 

確かに、ストレスが溜まってくる人のことは想像できなくもないけど、そもそもそういう楽しみは人にとって余剰であって、それが当たり前だったから最低限にしてしまっていたというだけではという真面目な話。当たり前の慣性というのはとても怖いなと自戒しようと思った。ここでパソコンに向かって日記を書けることも余剰であって最低限ではないからいつできなくなるか分からない。こんなの人間関係だって一緒だと思うけど。

 

対面会話で言えば、他人はごみ箱ではないし思い通りの言葉を返してくれる存在でもない。

 

何の情報持っていなくてもこれくらいのことは考えることができる。全世界で何万人の死者っていっても世界史で読んでいる第二次世界大戦では3000万人らしいから、過去の知らない人と今の知らない人で重みが変わる意味も分からない。あるとすればひとつだけど別に言うまでもない。

 

当たり前が揺らいだ時に動揺しないようにするためには、そもそもあらゆることが当たり前ではないと備えること。結果としての感情はしょうがない。分かっていたって悲しいものは悲しい。

 

ついでだから、僕の性質。僕って人に媚びる人が駄目なんだなって思った。人あたりは良さそうに見えるけどこれって結局ねだっているのだろうなって。つまり、他人を手段とする所作。僕は人あたり良い人物にはなりたくない。立ち回るためにはある程度必要なスキルで、手段とされないために身に付けなきゃなとは思うけど。好意がある人にはたまにはねだってくれも良いのにとなるけど、これは規定値がねだらない人に対する限定的な想い。

 

最後かな。

 

村上さんの短編で、短編小説を書いている主人公の話。男2人と女1の輪で自分ももう1人の男も女に惚れていてみたいな、社会と個人関係の齟齬みたいなストーリーに何か思入れがあるのかもしれない。色のないつくる君の話もそうだし。でもなくて、「彼は文体を持っていた」というフレーズのこと。僕は自分の文体をほんとうに持っているのかが定かではないと主観的に思っているけど、文体は勝手にできあがっているものなのか。良く分からないな。

 

主観と客観の間にあるのが社会だという話を思い出したけど、明日書こう。明日があればだけど。

 

では、皆さんが春を楽しんでいますように。

 

おやすみなさい。