無関係

 

 

昨日よりも寒いし帰りは雨も降っていた。歩くときはこれくらい寒い方が良い。仕事でぎりぎりに出社するためにぎりぎりに家を出ている。早めに出てゆっくり歩くみたいな調整はストレスだから。ほんとはぎりぎりに着くのもストレスなのだけど、だったら給料付かない10分前の朝礼も無くせばいいのにと思わなくもない。まぁここはどうでも良い範疇。

 

 

さておき。

 

「真夜中」の本はやっぱり今家にある。上下巻だったけど、新刊シーズン逃すと残っているか分からないから一括買い。タイトルは「真夜中」のすべて光とのこと。光のイメージはないかもしれない。まぶしいけどなんか違う。確固とした物質というでもなく、捉えどころがない。だから良いのかもしれないのだが。「波」ってまさに良い名付け。

 

なんだか反応がフィードバックされない関係というのはなかなか心もとないけど、自分が自分で居られる感じで良きな。フィードバックがあると、だいたい自分の位置はここら辺だろうなと学習してしまう。あえて相手の世界にある自分の像を壊そうとも思わないから、勝手に狭めるという。僕は僕自身と誰かの中に居る僕を別物として見ているのかもしれない。

 

ところで、ずっと手を、で、男性の登場人物が一生自分は冷めているのかもしれないって言っていた。でもなんだかんだ嫁は居るわ恋人も居るわで、その孤独感ってただのないものねだりだと今なら思う。ほんとに孤高ではいられないから、せめて内心だけは孤独でありたいみたいな。かつて僕に私は誰も好きになれないだって主張しながらいまや苗字が変わっている人をなんとなく思い出した。幸せにやっているといいけど。

 

真夜中の光の方は、最愛の人が亡くなってぼろぼろになったところで、亡くなる前に2人で体験した仮想世界のキャンペーンを見つけて、たぶんバーチャルの中で再会する流れになりそう。記憶が飛ぶとか味覚がないっていう描写はとても分かるなぁと読んだ。自我が喪失する。これを手っ取り早く体感できるのはお酒を飲み過ぎて記憶が飛ぶやつだけど、僕は最近やってない。喪失させたいと思えるほど自我が崩れていないので。

 

1人で飲むようになって、かなり安定した。恋文とか我に返ってかなり恥ずかしいと思うこともあるけど、別に本心には違いないから、これで関係が無くなるなるならしゃーない。

 

亡くなると無くなるに僕はそれほど違いないと認識しているのだけど、この違いってどう価値が違うのだろう。世界の認識は主観的なものだから、関係が疎遠になって更新を認識できなくった人って、当人の世界には存在しない人に等しいのだけど、この存在が無くなることには割と無頓着な気がする。であるとすれば、無くなる前に亡くなった人の方が存在の喪失として価値が重いということなのだろうか。確かにこれは自分の一部の喪失かもしれない。関係において相手に自分の一部を委譲しているから、亡くなったことに対する痛みは自分の痛みに等しい。つまり、相手に対する想いではなく、自分の喪失感だと思う。相手を想っている自分。別にこれで良いと思う。ちゃんと自分のものでしかないと認識できていれば。

 

社会美学の本で、飲食店では場が消費されていると書かれていた。確かにそうだ。人は雰囲気も消費できる。ただ、これってある意味グロテスクだとも思った。消費って要は食べることで、これって突き詰めれば人を食べているみたいなもの。あんまり潔癖になってはいけないけど、自分が場を楽しんでいるとき、個々の他人は抽象化していることは忘れないようにしなければ。僕はほとんど1人で場を楽しむという感じでもないけど。ここでいう場では僕はあんまり参加者ではない。もっと言うとこれのためにエネルギー消費する価値を感じないというだけ。

 

ただ、これって突き詰めれば、11の関係でもいえなくはないよなと。関係が嬉しい、楽しい、みたいな肯定的な評価をするとき、確実に僕は相手のことを食べている。それは甘味であってなくてはならないものではないし、具体化されたものだけど、食べていることには変わりない。

 

考え過ぎだって言われることもあるけど、僕は考え過ぎて自分が揺らぐってことはない。他人から観測されたときにそう見えることはあるけど、それは相手の観測の範疇の話であって僕の話ではない。どれだけ自分の認識をぶっ壊しても壊れない自我がある模様。なんの才能もないのは認知しているけど、そんなこともどうでも良い。今関心が向いている1つは自分の声について。

 

だけど、時間切れか。

 

では、また明日。

 

おやすみなさい。