深層学習

 

 

お腹が空いたから本屋に出かけた。ウイルス的にはあまり移動しない方が良いのは分かっているけど、移動の自由は人権である。一応マスクはしたし大阪の中心から離れる方向の一番近場のやや大型の本屋さん。古書があったところに文具が入って、古書が表に移動されているから忙しかったのか他の棚もやや荒れていた。こういう人間味があるところが好きな店。

 

しかし、法学の本が追いやられているのはやや気になる。まぁ今時資格試験を受けない人には需要はないと思うから経営としては仕方ないか。刑事訴訟法の本で何回も回せる本が欲しかったのだけど、なかなかタイミングが合わない。まぁ徒歩20分くらいで大学院に通っていた大学の本屋さんがあるから、本当に欲しければそっちに行けば良いのだけど、できればあまり行きたくない感じ。卒業式も行かなかったし。

 

結局は本から何を読み取るかであって、所有すること自体には意味はない。最近ちらちらみる「読書する人だけが辿り着ける場所」という表題の本。個人的にはたどり着くのはとてもとても孤独な場所なのだけど、想像するに何かが充実するとかそういう話っぽい。まぁそう向きもあって良いと思う。自分に合う本だけを読むという選択肢もあって良い。

 

ただ、僕にとって本は、読むものとしての側面と、貴方に私が読めるのかという自分への試金石みたいな側面がある。待っていました、みたいな。一般論じゃ自分には辿りつけないし。

 

ご飯の話。有言実行で、プログラム言語の入門書を買ってきて、ソフトをインストールした。ソフト自体は無料だからいつでもできた訳だけど、自分にその準備がなかった。少しだけいじってみたけどなかなか楽しい。空飛ぶにしきへび。別に僕はこれで何かを創ることには重きはおいて居なくて、コンピュータの中の世界の構成物を読めるようになるためというのが主眼。単純なコマンドへの反射を組み合わせて建築した世界なのだろうなと。英語と数学が必須だからやっと基礎が備わった。入門書は触りながら一回は通す。やはりどこもと関係していない方が自由だ。

 

 構成物と言えば、人間を構成しているのは生物学的な肉体とか社会的な観念とかあるけれど、根本は言葉だと思われる。共通言語としての言葉というより、自身の語彙という意味。

 

 ここで、もう一個のご飯である、AIについての入門書。人工知能の学習の過程を検証することで、人間とはなんぞやっていうのがわかるのかもというテーマでとても美味しい。何がって、最新知見であるはずが、古典哲学に回顧しているというところ。

 

AIは膨大に学習できるけれど、ヒトには辿りつけないのは何故かというと、概念が把握できないからということらしい。ネコとかcatという言葉も情報も分かるけど、1段階抽象化したネコという概念を学習するのが難しいとか。これって人には当たり前に分かるものかもしれないけど、人は言葉を知る前の一番吸収力高い時期に概念を習得しているみたい。これはカントさんが言うアプリオリなのかどうかは知らないけど、プラトンさんが言うイデアではある。

 

 あと、面白いと思ったし、確かにと思ったフレーズ。

 

 「学習の本質は分けること」

 

 AIの学習作用では、何かは別の何かではないっていう0と1で分けていくけど、人間の認識もそういうことだろうなと。この文脈から見た知識は増えたのではなくて厳密には無限の未知から既知部分に分けられたという意味になる。認識はきっと生きていくことで正解が増えていったり、自分が正しく思えたりが増えていくと思うのが人なのだろうけど、僕はその積み重ねが自分だとは思えない。

 

 むしろ、自分の既知と整合性が取れない世界を認識できるようになることが人生だと思う。素朴な自己観では目まぐるしく動く世界を捉えきれない。自分は概念ではないということ。ついでに決まってもいない。

 

 最新科学が回顧ぽくなっているってことは、人間社会は発展しているのではなくて、ループしているだけ。例えば、今流行っているコロナウイルスも中世ヨーロッパのペストと似たようなものかもしれない。もう1つ言うと、自分の年齢が増えたことだけで自分が進んでいるという認識もなんだかメビウスの輪っぽい。勝手に進んでいると思っていたら戻って来てしまった。みたいな。ヒトって全然学習していない。愛すべき傾向なのかもしれないけど。

 

 僕がこういう風に生きているのは、他人への説明の言葉では自分が気に食わないだったけれど、説明しないといけない他人がいなくなったら、ただそういう風に生きるのが自分であるというだけ。何か結果を出すために生きている訳ではない。

 

 のろけ、の前に。人の人間の定義ってあんまり厳密じゃないから、ネット上に貴方の話を聞きたいですっていうAIを投入したら、きっと話を聞いてくれる人間なのだって認識されると思う。人はだいたい自分の話を聞いてくれる人を求めている。

 

 そうして、こんな世界在って良いのかというのろけ。想い人がね、「硯さんの存在を受け入れるには十分な理由です」と言ってくれた。まず、存在の定義から合わさないといけないけど、こんなこと誰にも言われたことがない。

 

 存在と言えばハイデガーさん。存在には時間性が付着しているとか。まぁ分かる。誰かに

とっての自分の存在って、継続的に在ることで、それがなくなったら一気に過去になるわな。今やこの時間性すら客観的ではない世界だから、存在の定義って、とても主観的なものに落とし込まれる。触れることができるものが存在だとすれば、仮想空間で接している疎通しているのは存在ではないし、これも含めて存在とするなら、自分の夢も存在になりうる。

 

僕の存在の定義は、自分が認識するかどうかに関わらず勝手にあるモノかな。存在としての自分もここにある。ハイデガーさんには申し訳ないけど、別に時間とは関係ないかな。ほぼ死語みたいなもの。

 

 そうそう、言葉。僕は言葉を紡げなかったら想い人との今の関係性はないからよく積み上げた自分みたいなところはある。自己表現としては使い勝手悪い道具だけど。

 

 では、良い夢を!