凍り付いた時間

 

 

 

いつも何かを忘れている気がする。

なんだろうな、この感覚。

 

 

昼間に徒歩5分のコンビニに行く道中、白いツツジを見かけた。白い花を綺麗に感じる自分を見出す。なんだか生存競争から外れているみたいで。ミツバチの視線から外れそう。そういえば、春の花につきものなこいつを全然見かけない。絶滅しかけているという話は本当なのかも。とすれば、ミツバチを経由しないと子孫を残せない植物はどうするのだろう。

 

あと、このご時世の話だけど、人間が何をしようがしまいが70日で収まるという見解を出している専門家もいるらしい。だから安心だと思わないけど、僕としてはコンビニすらトレー渡しになっているのはとてもいいと思う。慣性で手渡しにしてくる店員さんにもなるべく触らないようにしている。これは僕が移されたくないではないし移したくないでもない微妙な感じ。触った程度で神経質になるのはかつてのHIVの感染の誤認識と同じように思うけど、移されるっていう観念の強固さよ。

 

そうして、夜に買い出しに行くと、星の数は少ないのにやたらと輝いていた。ぺらっぺらの三日月より細い月も綺麗。月の輪郭がうっすらと見えるのは物理的にどうしてなのだろう。光の波動性なのか。宇宙がとても近く見えた。

 

というところで、僕は世界がとても好きだ。観ようとすればいくらでも綺麗なものを見せてくれる。でも、自分が含まれる社会とか生活にはあんまり美味しさを感じない。いっそいない方が良いくらい思っている。まぁしゃーない。

 

朝一で母親から電話がかかってきて、ラインが返ってこないから○○〇にやられたかと思って心配したって言われて、自分の不機嫌な声が久々に観測された。他人の不在の可能性を言語化することはある意味呪詛である。気持ち悪い。言葉と意思がごっちゃになっている。僕はこっちルートでは生きられない。いや、あるいはと思うところもあるけど。

 

こんな奴が一般的な認識が一番大事な法学を読んでいるのはなかなか滑稽である。社会通念とか、一般人の理解においてとか僕は一切分かっていない。だから知りたいのだろうなというところではある。

 

世界の構造なんてほとんどしらないのに自分には自我があるって思う人達で構成された世界に正解なんてあるはずないだろうという認識。

 

これは別にどうでもいい。問題は自分にある。僕は時系列で観測していると、自分がいつもちょっと遅いという経験を積み重ねている。先に気付いて居れば回避できた他人を害することがなかったということが多すぎる。主観的世界であれば傷つけた他人なんて自分の経験値の一部だろうけど。

 

父親の友人になりたかった。という意味で遅いが原初。もう死んでしまっているから遅いし、高校生の自分にそれを求めるのは無理があるけど、自分の歴史を想うってこういうことでしかない。もっとこの時世界が良かったらという節もあるかもしれないけど、そういう世界観だったら時系列で不変な観念。

 

誰も内側で味方が居なくて居場所もなかった父親に対してどれだけ自分が理不尽なことをしたかっていう刻印は拭えない。

 

これを一般化されたら腹が立つ。レッテルは貼られたくない。現実世界だと容赦なく貼りまくられて同情されて、自分は倫理的に正しいのっていう当人を補強するために消費されているのだろうなって。

 

 

で、なんでいちいち認識の更新が遅いのだろうと思うと、自分が決まってないからだろうなということ。認識が変わってもどうしようもなく変わらない根っこがある。この根っこが誰かと生活できない原因だったりするのだろう。

 

結局自分が駄目なのである。

 

この関係論ではなく認識論だと、更新が凄い。過去の自分では読めなかっただろう本が読めるようになる主観的交信。まず発信する前に必要なのが認知だから。でも普通の天才的な人達は認知がなくても発信できるのかもしれないと思う。

 

最後。

 

人の範囲について。

 

人が人を認識できる枠はごくごく狭いと思っている。関係とか生活の範疇の人は自分に影響がある人としての具体的な人。これは具体的な人というより、具体的に自分に影響が

あるから人。では、その外にある人は、仮想的なのか。

 

例えば、僕をどの段階の人として認識していますか。

 

おしまい。