ホコリ

 夢の話から。無駄(でもないかも)な罪悪感を抱いていたからかなかなか嫌な夢を見た。どういう設計か分からない建物だけど。三角形の座敷みたいなところで、ガラス張りで薄いカーテンが貼ってある部屋。そこで小学生くらいの自分が姉と妹と雑魚寝している。外は穏やかな景色。そこに人影が顕れて。聞こえる声は無表情な男性の声で、「お叱り―お叱り―、、、」。気味悪いなと話していると、カーテンと窓ガラス越しから見えるこの家の入口から入ってくるのが見えて。なんで鍵を閉めなかったのだとなってそこからはひたすら追いかけられる悪夢。姿も見たけど全然知らない幸が薄そうなこじんまりしたおじさんだった。

 この罪悪感はなんだろうと日中考えていた訳ではなく、今思いついた。人と関係しているとき、なんとなく悪いことをしている感覚があるなと。外界を善悪で判断することはやめているのになにが引っかかるのかと思うとここ。この話は後にするか。

 目が覚めたらいつもよりだいぶ早くて、二度寝の夢の為にネットストーキングをすると一瞬良い夢が見られた。とても幸せな夢。書けないけど。ただそれは一瞬でその流れで僕がいかに集団にそぐわないのかが顕れる夢だった。いや、物理世界の僕は集団ではだいたい無色で場を乱さないけど、それができないようになりつつあるということなのかどうなのか。

 さておき。日常はつつがなく。もっとできそうだなという感じ。昨日より今日が良いのは当たり前というフレーズはネットストーキングして得た情報からようつべでお弁当作っている曲で歌われていたものだけど、まさにそんな感じ。ベルグソンさんも人の印象は進行しかないと書いている。これは言葉にした時点で全部過去だみたいな文脈だからやや違うけど。別に成功体験ではなく、ちゃんと蓄積を糧にできたか。一回通り過ぎた事象は二回目以降に再現できること。そのためには過去の精査が必要。あ、これはもちろん仕事の話。対人はいつも一回目。次の一回目のために蓄積を駆使するという意味ではありだけど、ちゃんと相手用に加工しないと。

 ところで、好きは自己愛だから大事に移行しなきゃ関係は保てないという趣旨の記事を見かけた。確かに、なんとなくわかるけど、どちらにせよ自分にとってという意味であるなら、自己愛の程度問題なのでは、という気がする。大事という言葉の意味も曲者で。好きも大事も、対ヒト以外にも使える言葉で、好きなモノより大事なモノの方が当人にとって価値が高いという観念を前提とした概念だと思われるわけで。いや、人と物は全然違うっていう反論も分かるけど、ただ、ある人格にとって他人は対象でしかないというは明らかで。対象っていうのは、自分ではないということ。自分にとっての都合の良さが好きに言い換えられていることもあるし、自分に価値を置いてくれる反面として大事があるかもしれない。

 ベルグソンさん曰く感情に対する言葉の凝固性能はすこぶる高いらしいから、その感情を表現した中身を分析する必要があるかもしれない。ちなみに僕の好きは、僕が好きであればそれで良いっていう自己愛とはほぼ無関係な概念。自分自身はちゃんと別にある。大事は、何かをしてくれるとか認めてくれることではなくて、存在を許してくれること。モノに対する好き、大事とは全然違う。

 自分の目で見えたものは大事。今日の月は明るかったように見えたし、帰り道、あ、これ梅のつぼみかなって焦点が合うところとか。焦点を当てることが無ければ日常なんて光速で過去になって、ただ単に通り過ぎるだけ。梅のつぼみがピンク色になるのは時節的に早すぎると思うのだけど、錯覚だったのかしら。今の時代品種改良で季節関係なく花が咲いているみたいだからありうるか。紫陽花もまだ咲いていたし。

 もう一回戻ってくるけど、自分のことを好きだと評するならここまではするのが当たり前みたいな観念だったらたしかに自己愛だと思う。主体的じゃなくて環境として好きという意味。でも、この概念って相手を自分と同等の人とはしていないよなと。相手にだって環境はある訳で、自分が使った分が返って来いならもはや契約だし。恋愛の最終形が結婚だとすれば、分からない話でもない。

 大事で言うと、僕はこれだけ読書狂だけど、本を大事にはしていないと評される。これは本という物質より本の中身を大事にしているから、本の見てくれがどう変わろうと意味が変わらないということだけど、一般的には本を大事にするって、本をきっちり本棚に収めるなり手入れするなりして物質的な本を保つために時間をかけることなはず。

 想い人の本も、たぶん最終的にはそういうことになるだろうけど、これで想い人的に大事にされたことになるのかは気になるところ。ぼろぼろになるまで読み返すかもしれない。媒体としての物質が消えても当人の中に残るものが大事だと思うですが、どうでしょう。

 だから集団にそぐわないのだろうなというところもある。関係を大事にしているかどうかって、集団においてはほぼ外形で判断される訳で。例えばそもそも参加するとか交信は頻繁にするとか、一番悪いのは概念の統一感。憲法上の集会の自由の存在意義とほぼ重なりそう。

 そうして、僕の素朴な罪悪感の話。まだはっきり言語化できるほどは分析できていない。時系列で色々考えていたけど、もはや過去だし。例えば最近まで最有力だったのは、自己の価値が低いから自分と接することに消費することに対する申し訳なさという説。でも、今年になって、そこではないなとなった。次の有力説は、相手の概念の中での僕ではないけど、相手の概念を壊さないようにするという嘘をついていること。これは通説になりそう。別に僕は相手からの自分に対する観念をあえて変えようとは思わないから、そのままでええわってなる。他人の中に居る自分と、自分自身は違うし、もっと言えば自分自身すら違うし。

 という世界で生きながら、今回の罪悪感はピンポイントかなと思うところもあって。想い人に対して好き好き発信しているのだけど、これはいつまでできることなのだろうとか、何か強制させている面はないかとか、鬱陶しくないかとか思っているのに継続してないないかという悲観的罪悪感。当人から嬉しいと言われもこの感覚は拭えないという、経験的呪いみたいなもの。言葉ではそう言ってくれているけど、ほんとうは相手は僕を要らないと思っているのに無理やり場所を取っているのではないかという概念。

 だから、自分と無関係に、好きも大事も在る。という概念にさいなまれたのでしばらく誰にも一方的に発信できないだろうな。世界には全く関係ないから問題ないけれど。

 

 では、皆さん体調崩しませんように。

 

 おやすみなさい。