おもしろさ

 

 

今日は朝一でクリーニング屋さんに行く用事があったから、干からびそうになりながら早朝の路地を歩く。そうしてついでに少し開店待ちをしてスーパーにも寄ったのだけど人が多くてびっくりした。開店したばかりのスーパーのパンコーナーの香りというか香ばしさはあの時間しかないから、嗅ぎに行く価値はあるかもしれない。あの量の作りたてのために職人さんは何時出勤しているのだろうと思うと、時短も需要がある限り難しいのだろうなと。ついでに弁当とか惣菜も作っているから飲食店の役割も兼ねている。

 

クリーニングの受け取りに行った夜は、満月を見上げていたから人のことも花のことも見ていない。自分の歩く速度がやたら遅いと感じたのは鈍っているということではなかったか。

 

さておき。

 

昨日の日記は文字数足りてないところがあるだろうなと読み返してみたらそうでもなかった。毎回最低限は書いている模様。弱ったひとフェチの話は少し補足が必要だけど、別に今さら語弊もどうでもええなぁという感じ。まぁ僕も弱った人フェチだったというか、弱った人ホイホイで止まり木だった時期があるから、人の弱い部分への愛おしさみたいなことはとても分かる。そこを慰撫できる限りで必要とされるし。フェチな方が弱いというは、その弱さが自分の中にあるというか、その弱さを知っているというか、その弱さが他人事ではなく把握できるとかそんな意味。と言語化してしまった。

 

想い人に対してはフェチとかではなく、いやフェチもあるけど、僕も何かしなければと思わせてくれる、無形の原動力感があるところ。変化している人は好きだ。変化することは変化しないものが抽出されることでもある訳で。僕は実践があんまり足りてないからなぁ。何をしてみようか。とても強靭な人。好ましや。

 

思考は実践なのかという問いは難しいところ。実践に影響はするだろうけど、準備でしかないような気もする。ただ、僕が考えていることがどう実践化されるかもよくわからんけど。

 

どの辺が夏なのだろうと某アーティストの音楽を良く聞いているのだけど、分からない。声の感じは好き。宇宙の果てについては未だに考えている。思春期の取り留めない疑問ではなく、どう解明されるのだろうという意味で。

 

哲学の語源の智を愛するについて考える。智って字面から考えると、おそらく自然がどういうものなのか仕組みをただ知りたいと思ってしまったことのだろうなと。子育てしたことはないけど、子供に何で雨は降るの? とか何で月は暖かくないのに太陽は暖かいの聞かれたらメンドクサイと感じる親御さんも要るはず。小さい子供はもともとが哲学者。知らないことには答えようがないから、そう決まっているのだとしてしまうのはいつの時代も同じ。

 

天動説から地動説への転換もそんな感じだったのだろうなと。プトレマイオスさんは別に宗教的自然観を覆そうと思ったのではなく素朴な自然観として違和感があってそれを解明したかっただけだろうなという想像。

 

そうして、自然を測る手法として数学が生まれて、無限の観念が出てくる、1、2、3、4って数えていく数字が無限で1と2の間にある数も無限とかよくも変な捉え方発明したなという感じ。この、ただ知りたいからひとまとまりの仕組みが発明されて、この仕組みは他にどう応用できるのかという実践が自然科学の領域。

 

要は、智というのは現代的に言う知識とは違うものだったという解釈。今でいう知識は、作用とか結果の集積な気がする。一言で言えば経験則に近いけど、ともかく具体例ありきだから、抽象化しにくい。経験則はどこかで頭打ちになる。

 

社会学とか美学の面白さと、経済学も法学の面白さはやや違う。前者は個人に依っている。社会って客観みたいだけど、主観の集合として捉えられた関係。社会契約論読んでいて、やや野蛮というか理想論みたいに思うけど、現代社会がこれを前提としている訳で。現代日本人はそんな感覚すらなさげだけど、それは戦後の教育の賜物。僕もたまたま法学やってなから、なんてこともないか。法学は省略。

 

経済学はファンタジーだって特に学んだこともない大学時代の知人が評していたことを思い出す。確かに人は経済学的な世界に限定されないから、机上の空論観はあるけど、経済的人格論はとても素朴な人間に近いような気がする。

 

例えば、人間は何かを選択する時に、どれが一番自分にとってメリットがあるかを思考するだろうという話。何かを選ぶということは他の全てを選ばないこと。これが経済的に把握できないのは、メリットがあってもめんどくさいと思ってしまったり、メリットがなくても心理学的に選んでしまうとかのノイズがあるだけ。総合的に考えればその人の現時点で一番良いと認識できるものを選んでいると思われる。時間の経過で選択肢も変わるだろうし。

 

 

そうして、素朴な僕の話。

 

僕はまぁまぁ影響を受ける質だけど、影響を受けない部分についてもなんとなく分かってきた。人の定義で言えば、自分にとっての自分、自分にとっての相手、相手にとっての相手、相手にとっての僕でそれそれ違うだろうなと思う。この組み合わせはもっとあるけれど、だいたいの人は自分にとっての自分と相手しか気にしていない。確かにこれは世界は主観的なものだという前提からするととても合理的だし、人には目的があるものだという世界観も分かる。だって、まずは自己保存しなきゃならないし、相手から見える自分なんて懸念する価値がない。

 

あなたにとって僕は何ですかってところに価値を置くのは、僕にとってのあなたは既知の部分では決まらないから。僕が自分の知見を変化させることと誰かが僕に好意とか興味を寄せてくていることは全然関係ないこと。僕は相手にとっての相手が知りたい。

 

おしまい。

 

では皆さんメランコリーになっていませんように。