かたりあい

 

 

2日連続2時間残業もなかなか衝撃的、対策はなかったのかいとそりゃあお客様もお怒るわなと。同僚の古株さんに聞いたけど、周期的にこういうことはあったけど、今回が一番酷いとのこと。進歩とか便利とはなんぞや。まぁ便利を追求したから1つの不具合でそうなるというのは全世界の共通項よね。お金を払っているのだからなんでも都合良くやってくれるだろうと、日々の便利さを当たり前としている。まぁだからこそ成り立つ仕事なのだろうが。僕にとっては他人の不機嫌に馴れる練習。体よりここが疲れる。まだまだかなり拒否感があるなぁ。でも、ここには1つの本質があるとは思う。

 

他人じゃない不機嫌はなつかしさすらあるけど。

 

アイスを買って帰ればご機嫌だったし、別れる間際らへんはセックスしたらうやむやになると思わないで言われたっけ。別に不機嫌を回避するためにこういうことをしていた訳ではなかったから、あの時の自分は随分きょとんとしていたけど。まぁ後者に関しては相手の性衝動に合わせるという傾向もあったけど、別に僕は床上手ではないし、最中に愛を囁いたりしないし、何をもってうやむやにしていたのかは不明だ。いや、不明でもないけど生生しいから省略。表現の話。

 

さて、帰ってきてもっと衝撃的なことがあったはず、と記録を遡ったら、そうそう。レンゲの絨毯がなくなってちゃんとした畑になっていたところ。きっと次は水が張られる。でも、あの絨毯がこの田んぼの肥やしになるのだろうなと思うとなかなか感慨深い。でも、毎年絨毯が出来上がるはタネを植えているのかな。

 

素朴な自分が眠りを欲している。けども書きたいことがあるような気がする。書かねばならないという強迫観念なのかと思ったけど、そんなことはない。義務では素朴な僕は動かぬ。

 

どうでも良いけど、BGM的に流しているアニメも尽きてきたから今「精霊の守り人」を流しているのだけど、なんか駄目だ。僕は守り人シリーズは全部既読だから、もうイメージが固まっていて、チャグムはともかく、バルサもタンダも綺麗過ぎる。アニメから入れば面白く食べれたような気もする。獣の奏者エリンとか十二国記みたいに。デュラララはアニメ見たけど原作まで読む気はしなかった。

 

またオタクっぽい話に脱線する。

 

昨日の表現の話は、読み返してみるとあんまり分からないと思ったので、もう少し分解したい。表現っていう言葉はどうしても言語に寄るだろうなと思うし。それとも表現者である人にとっては僕の表現物なんて食べる気がないという気もするけど、僕が気に食わないというだけ。

 

確かに、表現を伝達とか表明と等価で用いるのであれば、それは言語だし、加えると行為でもある。言語と行為が自分の存在の表現だというものさし。この階層の人って、別に関係なんてみじんも求めていない。だって、自分の表現は当人の存在の為にどうかでしかないから。凄くはっきりした世界観で、世の中のルールはここを前提としているのだけど、この感覚は現人類の最大公約数くらいの意味しかない。

 

受信の観念が欠けているから。人の言動も含め発信するためには受信が不可欠。という観念が憲法的には近代だけど、この観念までたどりついているかが良く分からないところ。人は人の言動だけを読み取っているようには思えない。察してちゃんがが駄目だ、ちゃんと言葉にするべきだっていう層もあるけど、なんで人を言動で限定するのだろうと思うと、結局は、自分の世界の登場人物くらいにしか捉えてないから。

 

受信の観念が欠けているというより閾意下でしか働いていない作用なのかも。人から読み取るものって非言語の方がはるかに多いのに、自分が読み取られる側になったら言語を重視するみたいな不均衡。

 

つまり、僕が言う表現は、誰かの世界の中で感得される対象でしかないい。

 

やはりややこしい気がするけど、これはしょうがない。自分の為の世界観のものさしの人には通じない。内心の話。

 

トイレに行って来る間に膨大なオフレコ文章が出てきた。僕は当面恋人も同居人も求めてないなと。誰にも選ばれないの前に、誰も選ばない。

 

何処まで書いて良いのか思案中。

 

箸休めにたらたら書くと、僕が自分の日記を読んでいる人が気になるのは、僕の表現物を食べる悪食な人はどういう人格なのだろうっていう興味でしかないから、てきとーに関係するだけならやめとけよって思う。素朴な嬉しさは違うところにあるのだけど、まぁまぁ誰も言っているのにまぁまぁ誰も気付いていない。

 

自分の感覚の証拠が直感だったとき、当たり障りない経験則的なものさしとどちらを選ぶか。これは経験則の為に蓄積された言語みたいな話だけど、僕はぼくと接している人を見たとき、あくまでも自分の為ででしかないだろうなとは観測されている。別にこれはこれで素朴な人間観だから問題はないけど、対素朴な僕に対しては悪手。

 

反応が早いことなんて僕に対する好意の証拠にはならない。これは逆もしかり。好意が自分の為のものだすれば、好意っていう言葉も封印しても良い。

 

僕は、いちいち交流できないことに寂しさを感じるくらいの人間味はあるけど、その寂しさの為に他の誰かと交流するっていうことはない。つまらないもの。

 

寂しさって絶対的なものじゃなくて相対的なものと思う。寂しさで人は死なない。反応が早いと焦がれていると認識されるかもしれんが、こんなのデフォルト。全然関係ない。

 

想い人は、さっぱり興味なと思わせて、へりくだって接してくれるし、だからと言って発信には全然返信してくれないし、でも、ここは全然寂しくない。

 

時間切れ。もうふらふら。

 

では、読んでくれいているの夢に寄り添えますように。