ありかた

 

 

グロリアス軽トラが好きかもしれない。

 

昼間に出たときは晴れていて、道中でバドミントンをしている姉妹と、ラベンダー擬きみたいな花を眺めながら歩いた。久々に最寄りの古書店に行ったけど、目的を持っていくと見つからないのは僕の人生に規定されている模様。夕方に出た時は途中で小雨が降ってきて、帰りはもっと降ったら良いのにと思う。実際は降らなかったけど。ままならないものだ。

 

目的はプルースト失われた時を求めて。読んでいる本の中の2冊で登場して、何やら日常のあらゆるものに徴を読み取る主人公らしく、そろそろかなと。この現代社会、指の動きで手に入れることはできるけど、ここはそういうのとは違う気がする。まだ早いという徴。

 

僕がネットで買った本は今の所1冊しかない。某演劇の予習のためのターケルさん。これは通常の因果では僕の世界にやってこない本だったから。縁を意思で捻じ曲げた感がある。できる縁と創る縁は関係としては同じだけど、僕の中では随分違う。

 

指の動きで、といえば、大学時代の知人から着信があってその後にメッセージで、「生きているんか」と。心情は分かるし、「生きてるよ」って返せばそれで済むのも分かる。けど、何が済むのかというと、知人の満足であって、ほんとうに僕がここで生存していると言えるのか。素朴な僕は心配されても嬉しくないし、生きているかだけが気になることを表現する意味も全然分からないから回答ができない。生きていて欲しいっていう他人への祈りではなくて、自分の中での他人像を継続させるためだけなのではってひねくれているけど、まぁまぁ近いとは思っている。

 

ここでの「生きている」は自分に対して反応があること。確かに分かる人間観。でも、これってなんだ変な感じ。それは本当に人間かって。あまり突き詰めたらいけない部分だから一般論ではなく具体論。僕は「生きている」を表現で在ることだろうなと思う。表現はその人が生存する限り生産されていくけど、死んでしまった人の表現はそこまで。僕は表現を食べる側から認識しているから、僕がその表現を感得できなくても人は勝手に生存しているに違いないとの人間観がある。

 

知人は某脱線事故で友人を亡くしているし、父親も僕の父親と同じ疾患で僕の父親とは違って返れたし、自分が認識する存在が喪失することに対して不安観があるのかもしれないけど、ここに巻き込まれてもなぁという感じ。知人は人間関係にはドライな印象があったけど、何故僕の生存に固執しているのかというと、何処かの本質を読んでしまったからだろうなとか。

 

要は、自分の世界で知覚できた人がその世界からいなくなった時に、勝手に生きて居ることを存在とするかどうか。これくらいのことができないのに平等とかちゃんちゃらおかしい。

 

まぁ、だから平等もそうだし、倫理とか正義とかルールみたいな他律的な観念が必要なのだろうなと。

 

忘れていた舞茸論争。スーパーに寄ったとき、きのこゾーンでカップルが何やら話していて、舞茸を買おうとしていた彼女に対して、彼氏が、舞茸なんて味噌汁にしか使えないからどうせ正味期限切れるだろうとかなんとか。さすがに間をぶった切ったりはしなかったけど、話している最中に舞茸を籠に入れた。たぶんこのカップルの話題には上っただろうな。あの人も買ったやんみたいな。

 

この話で思い出すのは、直近の元恋人さんと飲みながら他のテーブルの会話とかの観察を肴にしていたこと。これを当人にまで及ぼせていたら、もう少し継続していたかもしれぬ。

 

 

あぁそうか、欲の話。僕には欲がないと言っていたかもしれないけど、厳密には全然違う。欲は人並みにあるけど、この欲は表現と直結してはいないというだけ。人ってきっと自分の存在を欲に直結しているけど、ほんとはそんなことない。欲って現実化されたとしても完結しないから、これを軸として自分の存在を定義するととても生きずらいと思う。

 

仏教の煩悩観はここと繋がっているのだろうな。別に教典読んでいる訳ではないけど、欲で生きる世界はどこまで行っても苦しいよっていうことなのかと。

 

ここからさらに掘ると、自分の存在はどうしようもなく固有。世界を感得するのは自分でしかないから、人一般にできるくらいの蓄積があるし。孤立感も一般感もちゃんと自分を完成できていない。世が世なら、太宰治さんの退場も回避できたかも。

 

僕は別に、他人が僕をどう使うはどうでも良いけど、ちゃんと覚悟あるのかというか。

 

目星としては2人。

 

ともかく。僕の文章から入って、現実的に関わろうと思ってくれる人なんてほぼ居ない。

 

日本酒美味しい。

 

社会美学だとテーブル理論で、抽象的な他人から抽出された誰かが味わいだとか宣っている。ここは主観的な視点での誰かでしかない。

 

僕が気になっているのは、あなたにとって僕は誰ですかっていうだけなのに、誰も応えてくれない。問いかけた相手に対する誰かっていう答えはありき。

 

僕は表現者じゃなくて、受信者だから、誰かが僕をどう観ているのかくらいなことは分かる。

 

でも、この分かるが独善的な世界観だという説も分かる。

 

 

ではお休みなさい。