らっかん

 

 

 

周期的に感じる自分は何もしていないという強迫観念。何をしたら何かをしたと思えるのか。何か忘れているというという感じも周期的だし。厄介な精神だ。しかし、ここに囚われているともいえない。なぜなら、なんだかんだ自分が自分であることが楽しいから。

 

さて。今日も引き続き残業の事態だった。残されるかと思ってセーブしていたら、さすがに守ってくれて残業なし。先週木金に引き続き大変だったけど、ふと思い返せば、そういえば2年くらい毎日2時間残業が定時で往復2時間の肉体労働をしていた。あの時も本を読んでいたし日記も書いていたし弁当も作っていたけど、今より全然余裕がなかったな。あれ、何も変わっていない。精度はきっと上がっているけど。

 

負荷の質が全然違うけど。対人仕事は相手の負の感情がダイレクトに来るからなぁ。不安とか焦燥があるから問い合わせをする訳で。単なる体が疲れるとは訳が違う。負荷は外からかけられるものだと環境だからあんまり意味がない。環境には馴れるしかないから。負の感情に対して環境として馴れるって、修練とかではなくておそらく相手をあんまり人とみなさないことにある。たぶん友人が多い人とか自然にできるのだろうなと想像する。これは善とか悪とかではなく、感情を伝達に絞るとかそういう意味。その抽象化をしている相手から個として認識されていると感じるのも不思議。

 

うってかわって。

 

反応に対して反応するのもどうかと思うけど、想い人の日記に僕が登場したのが嬉しいというより面白くてしょうがなくてどうしようもない。嬉しい感情もあるのはあるけど、表現物としての僕の影響値を観測する方が楽しいのかもしれない。

 

前置き終わり。想い人の2018年のインタビュー記事を見つけたという日記に対して、いやそんな記憶はないとのこと。僕もマジかと思った。もしかしたら寝ぼけて記事を想像力のなかで捏造したのかもしれない、と、一応再度調べてみたところ、ちゃんとありました。捏造だったらそれはそれで面白かった。AIディープラーニングみたいに、表現物を創造したみたいな。しかし、読み取った表現については捏造っぽい。捏造というかその記事自体に現れていないものを他の諸々と併せて照らし合わせたみたいな。

 

URL貼れば良いのだろうがそれでは面白くないので、記憶喚起のために間接証拠でいこう。まずインタビューを受けていた人。ビュイーかビュアーかは英語に疎いからあんまり分からない。たぶんビュアー? そうして、僕は想い人のルックスについてはあまり確固とした自信はないから、ここは証拠にはならない。僕のイメージの中ではもう少しシュッとしていたような。あまり言ってはいけないけど、空想くらいのカタチしかないからしょうがない。

 

で、中身はイベントのコンセプトと、あるWordpressの宣伝が半々みたいな感じ。ここから個人的なWordpressの構想があったのだろうなとか勝手に読んだ。で、リンク先のイベントのブログの方で、当時の呟き場で見かけた祭りの後の赤白青のカラフルな風船の残骸の画像があったからたぶん本人で間違いない、はず。ブログの著者の言い回しもそんな感じ。引っ越してカーテンがないから日焼けしっぱなしとかなんとか。ちなみに、記事での発言はかなりちゃんとしているいうか、アクティブで合理的でした。できないことはしない、できる人を探すとか、まず行動するとか。やっぱりすげーと思いました。最後のだなーって思いますという言い回しも好き。

 

と、あまりデレデレしてもつまらないので、食べログ

 

ここのブログは2年前だけだけど、イベントは去年も続いていたはず。2年前は想い人を知ったか知らないかくらいの時期だから行っていないけど、去年のはこっそり行った。盲点というか死角の表現物。で、思うのは、なんでブログを繋げなかったのだろうって。繋げなかったら、なんというか、誰も来なくなった博物館というか水族館みたいな時間の流れから取り残されてしまうのに。この取り残された館は僕の人類時間でいう記憶の心象イメージなのだけど。

 

色々考えられるけど、インタビュー記事の方にヒントがあって、来ない人に対する宣伝ではなく来た人が記憶として残せるように運営しているところ。たぶん実際に行った人がふと記憶を喚起したいときのとっかかりとして、孤島的な情報として残したのかなと。これがメルヘンな解釈。実際は予算とか、当人すら忘れたとかあるかもしれない。まぁなんでも良いけど、このイベントのブログも想い人が書いているみたいだから、ゆっくり頂くだけ。

 

なんかストーカー気質だけど、これって対人のものではないのだろうなと思った。文章的なストーカー。もちろん背景的な素朴な想い人のことも気になるけど、当人が書いた言語をどれだけ読み込んでも素朴な当人のことは分からない。

 

こうして、人類時間の話。僕は自分の記憶を遡るとき、博物館の化石とかひっそりした水族館みたいなイメージはなくなってしまった。想い人を知ったのも人類時間では2年前だけど、人類時間は関係ないくらい管の夢の演劇は鮮明だし、別に想い人だけではなく、自分の中のセーブポイントに対しても人類時間程の隔たりを感じない。

 

身もふたもないけど、人類時間なんて何もしなくても過ぎる訳で、この何もしなかった時間を自分の時間とするのはどうなのだろうって。確かに肉体は劣化するし、その劣化を経験値だとしたい気持ちも分かるけど。

 

あと、この時間の観念だけど、自分は時間の経過を全て観測している、つまり一過性がない連続した観測を自己存在としているはず。時間的ホメオスタシスが自分を自分だとする根拠。

 

だとすれば、僕のここは一過性もないし、300日、たぶんもっとだけど、言語化している訳で、素朴な僕とは別に独立した存在なのかもしれない。思いたったら容赦なく消すけども。でも、正味どっちが上位なのかは分からなくもある。

 

少なくともここには場所が在るし。僕が相手の現実が気になるのは、あんまり言語化し切るのも良くないな。まぁ良いや。

 

では、お休みなさい。

 

皆さんに適度な負荷がありますように。