ばくぜん

 

 

 

ひとことでいうと、なんだろうなこれ、という感情。中身の11つを言語化して取り分けていけばほぐせるのだろうけどほぐして何になるのか。

 

日記の前に、自分がここの前に書いていたところを何故か見に行ったら、読者が1人になっていた。ちょっと見たら、日記が1つもなくて読者が1人いる人。しかも読者になったのは1か月前ほどだった。なんだろう。日記が1つでもあればなんとなく背後の人物が読めるのだけど。何をもって読者になったのかは知らないけど、なんとなくプロフィールに今はここに書いてますとURLを置いてきた。徴でもなんでもないような気もするが、何か気になる。名前も見たことないはずなのに既視感あるし。たぶん異性でもない。ちらっと自分の日記も読んだけど、全然変わっていないように見える。

 

今のところあっちも消す気はないけど、こうやって生産性のない言葉を垂れ流すだけなのかと思う。

 

これも日記か。

 

今日の夢は3本立てだった。1本目は古めのドラマ仕立てで描写もあんまりできない良く分からない俯瞰のもの。登場人物の中に僕は居なかった。2本目は水というか池というかそのな夢。赤ちゃんくらいの男女が見ずに入って泳いでいて、視点は接写みたいに近い俯瞰で、聞いたことがない男性の声のナレーションが入っていた。泳いでいる水は全然透き通ってない、泥水のような透度で、そのうち大きなトカゲみたいな生物が赤ん坊の男の子を半分くらい口に入れてしまう。これは食べられてしまうのかという冷静なナレーションが入りつつ、実は亀だから大丈夫でしたみたいな。そのあといつの間にか主観になって、僕は水の中にいて、壁面に空いた無数の穴から亀っぽい顔が延びてきて僕の顔に近づいてくる。幻想的というか、グロテスクというか、僕は僕の顔に近づかれるの嫌だなって感じていた。

 

なんの示唆か分からない。自分があまり登場していないという夢は新鮮だったから、書き残しておこうと思って朝メモった。

 

3本目は、かなり分かり易くて、火事の夢だった。3度寝だから、ほぼ覚醒状態だったというところもあるはず。ふと気づいて起き上がってお風呂場のドアを開けたら火が起こっているというか、煙が溢れてきて、これが二酸化炭素中毒かーという感じでふらふらして、部屋に戻る。出口には辿りつけないから、ベランダに出る。この辺りからファンタジーになってきて、ベランダの下には川が流れていて川向いの住人に助けを求めるとか、飛び降りたシーンでは川は亡くなっている代わりに親類いっぱい居て、何故か僕は走って逃げさるのだけど、めっちゃ追いかけまわされるとか、走っている感覚に自分の知覚が追い付けなくなるとかしっちゃかめっちゃかだった。火事の夢はまぁまぁ見るからなんだろうと調べてみたら、現状によって意味が違うとか。

 

良ければ悪いことが起こる前兆だし、悪ければ良いことが。

では、現状が良くも悪くもない場合どうなるか。僕が楽しんでいるのは現状の話とは別のところで、何か好転したとか暗転したとかいうことはない。

 

夢の中でこんなスペクタクルなんて要らないから、もっと長閑なのが見たい。想い人とのオーガニックな幸福感満載の添い寝のとか。

 

夢の話が長くなってしまった。

 

では現実の話だけど、僕はこの辺りの境界がまぁまぁ曖昧になっているからなんとも言えない。例えば、人類時間では昨日だけど出勤中にふらふら車道を横切っている人が居てそこに自動車が普通に通っていて、急ブレーキで回避して何も起こらなかったのだけど、一歩間違えば大事故だった記録がある。その人はあとで追い抜いたのだけど、イヤホンを付けていて、注意力ない人は聴覚塞ぐのはやめた方が良いのにと思った。聴覚閉じるなら視覚を働かせようって。はて、これは現実か。というか、この人ちゃんと現実を生きているのか。

 

余計にややこしい。

 

現実とは何かって断言できる人は凄いと思う。いやほんとに。現に事実だってことか。事実とは、体があること? 存在と現実は違う? 疑問が募る。

 

そういえば、感情の1つに物悲しさがある。真夜中のすべての光を読み終えてしまったことに対して。良い話だった。最愛の人が亡くなったけど、その前に仮想世界で蓄積された人格その人があったから、それに逢いたいっていう動機から始まったもの語りは結局逢わないことで収まった。人工知能としての人格に救われる。

 

人は何ぞやっていう疑問は人同士で比べてもどうしようもないから、他の近いものと比べるしかない。今のところ世界にはそういう対象が現れていないのは、それを危惧する意思があるのかもしれない。自分より理性的で人間ポイ機械が出てきたとき、人間だからって許してきた自分がどうなるか。

 

ほんと、本は、今日ブックオフ寄ってみたけどカントさんもハイデガーさんもヘーゲルさんも続きがなくて、なかなか閉塞的だわ。繰り返して読むこと自体は良いけど、新しいものも含んでいないとしんどい。

 

想い人が新しいご飯を提供してくれそうだけど、3か月後とか、餓死する。

 

想い人ばかり考察しているけど、情報量があって自分が読まれても良い人が居て興味がわく人だったら、これくらいのことは誰にでもできる。人は基本読み物として食べられることは求めてなくて、自分の表現通りに相手が動くことの方が大事なはず。

 

僕が貴方に興味がありますかって聞いたとき、当人の語彙の中での興味で捉えられることとも近い。だから、いわゆる現実世界では語彙を制限しなきゃならない。

 

言葉に関する食べログは、一般的な読書感想文とも違って。普通は一致していると思う。自分がそれを食べてどうかとか、客観的情報とか。

 

僕の場合。何か人が作ってくれたご飯を食べたとき、ここは丁寧にしてくれたんだろうなとか、背後の人が見えることが好き。味とか完成度を要求するのは対プロな訳で、対プロでも背景が読めそうで読めなさそうなのが良い。僕が美味しいと感じればそれでいいでは留まっていない。

 

だから、言葉でも、対僕用の言葉を遣ってくれる人はありがたいなって思う。この話全然通じないだろうから、現実的関係の人には言わなかったし今後あっても言わないと思う。

 

ここは繰り返しのような気もするけど。

 

最後。想い人の最新日記考察。

 

インタビューの記事に関してはちゃんと当人だって把握されたみたいだけど、僕が書いた日記を読んで調べたのか自分で思い出したのか分からないような書きぶりになっている。読んだままだと、後者寄りになるのだけど、背景のイメージでは前者寄りになる。ドキドキしたって言っていたのに、あっさり済ませたのは逆に照れ隠しかって。

 

まぁこんなのどっちでも良いのだけど、ほんとに気になるのがこの先。

 

同居人さん。この人とても良い人のように読めるし、想い人もとても愛着を持っているように見受けられる。過去の日記で、同居人にブラウニーを「持たせた」というフレーズとか諸々が表している。

 

けど、この生活の描写を見ていて、僕は全然安心感が読み取れないところが気になる。たぶん毎日一緒に寝ているのだろうけど、それとは別に決めごとがあるような気がしないでもなくて。

 

だからと言って僕が割り込むみたいな観念は今の所ないけど、情報の開示が増えるにつれ読み物として不安感がある。いつまでも続くと思っていないだろうなという意味とかなんとか。

 

祈り案件できたな。

 

おやすみなさい。