受信アンテナ

 

 

明日は親に頼まれの市役所に行かないと行けない。明日印鑑証明書取ってきて、明日うちに届く書類に記入して明後日には郵送しろと。なかなか超特急仕事だ。おかげで今日の読書時間に読めた本が少なくなったし明日弁当もなし。まぁ1日くらいとか思っているのだろうけど、まぁ良いや。あと2つ市役所の事務処理が残っているから済ませておこう。

 

実家に帰らないのは何かあるのかと聞かれたのは、てきとうにはぐらかしておいた。今までもペース変わらなかったでしょうって。ほんとうは時間がもったいないから。移動時間は別に良いけど、日記も書けないし本も読めないし気も遣う。頑なになり過ぎという向きもあるけど、どうせ過ごすなら、自分が相手に時間を使うと決めた相手が良い。もっと1人のときに緩みを無くして詰め詰めにした後に言うことかもしれないけど、少なくとも収集することがない日なんてないもの。

 

あと、昨日の想いと祈りの話は比べるモノではなくて別次元のことだろうなと訂正。好きはどうあっても対相手との関係におけるものだし、祈りは関係とは無関係だ。だから、恋人になりたい好きと、恋人にならずに勝手に僕の知らないところで幸せになったら良いという祈りは両立する。これは自己存在が曖昧だということが前提だけど。好きなように生きるという生き方には、関係を比べると、道筋で他人がどうなろうがどうでも良いという観念が含まれる。共同社会関係にはそのエゴの調整弁みたいなものとして倫理とか道徳がある。

 

想い人が僕の文章を読んでいるのかというのもシュレーディンガーの猫というか波で、どちらにせよ観測範囲外だし、僕が抱いている好意とは無関係、とは言い切れないか。観測範囲外で考えると、例えば自分のことを好きだと言ってくれる人が居たとしても、その言葉だけで当人の内心を観測できることにはならない。

 

民事訴訟法的において、事実には主要事実と間接事実と補助事実の3種がある。主要事実はそれが認められたら勝てるものだから、真実みたいなことでいい。間接事実は、真実を推認させる事実。そうして、補助事実は証拠がどれだけ信用性があるかに関わる事実。全部事実という現実だけど、それぞれ機能が違う。この3種のどれが最も非現実かと考えると、真実だとされる主要事実だったりする。真実の証明のために他の現実を積み重ねないといけないのだから。

 

感情と行為の関係も良く似ている。感情は誰にとっても真実だろうけど、それを証明するためには行為で納得させる必要がある。自分がこういう行為をしたこということはこういう感情を抱いていたのだろうって逆算もあるけど、どちらも間接的な現実から真実を推論しているのでは。

 

言葉は割と真実寄りのものだから、言葉自体が真実だと鵜呑みにする人も多い。僕は今のところ親以外には嘘つかないけど、その規範なんて他人からは観測外だし、僕は他人の言葉をそれほど真実ではないと思っている節がある。別に人間不信ではない、念のため。言葉は簡単に自分を装える力だから、力の扱い方をどうしているかという観測の話。

 

例えば、毎晩おやすみなさいとメッセージを投げてくれる人がいるのだけど、1分もかからないこととはいえ、僕に時間を使ってくれているのだろうなと推認できる。別に投げても投げなくも良いところである訳で。もしかしたら僕が挨拶とは良いものだって書いたことを実践してくれているのかもしれないし、なんとなく仄かな好意が観測されて嬉しいなぁって勝手に思う。

 

この観測は言葉だけではない。おそらく毎日読んでくれているのだろうなと推認できる人も居るし、僕は誰にでも使っている言葉を投げられて何か嬉しく思うアンテナはない、たぶん。グリーはお気に入り登録すると足跡が付かずに読めるらしいから、観測はできないけど、それでも。

 

観測というよりはなんだっけ、自分が昔遣っていた、なんとかアンテナ。非言語だったか無意識だったか。昔からそういう奴だった。

 

現実で発話数が多い人って、自分を曖昧にしたいのだろうなって思うけどどうだろう。発話を重ねるごとに他人からは当人の発語はところてんになるから、場を回せる。僕はその循環を害する発言をしてしまうし、特に集団において発言したいことなんてないからあまり発話しない。発話が多いから活発だという間接事実もまぁまぁ嘘っぽいと思っている。

 

僕の言葉は、基本的に真実だと思ってもらって構わない。現実化になるかならないかは僕の範疇ではないけど、読み手の歓心を食べようと思って書いていないので。歓心を意図していない。

 

そうして、想い人を想う主要事実の推認。恋愛感情がブレンドされるとあまり冷静な分析はできないのだけど、僕は想い人の素直(と観測される)な言葉が好きなのだろうなと。最近のヒットは、(別に恋人でもない人物から好意を投げられまくって)まだ嬉しいですかって聞いたあとの返答。誰でもいつでも是と。

 

悲しき返答だけど、それでこそみたいなところもある。いくつかの返答からは仄かな好意すら全く感じないし、あるとすれば仄かな興味くらいなのだけど、そうだったら僕の好意はとっとくに一般的なところに調整されているはず。自分にはそれくらいの節度はあるという自負もある。僕が抽象的なファンになったところで想い人の文章を読めることには変わりはないし。

 

むしろ違和は、現実的に邂逅した記録にあるのかなと。こちらでは何故か仄かな好意が観測された。ただこれって、観測した目が恋愛感情でバグっていて、ただの他人への笑顔が僕だけに向けられたものという可能性の方が高いから信用性がない。笑顔が一般向けとしても照れはどうなのだろうとか、まぁ良いや。

 

僕が観測しているのは、一般的にどうかではなくて自分にとってどうかだから、違うなら違うって言ってくれて問題ないのだけど。

 

関係ってなんだろうな。密度なのか年月なのか。僕にとっては意志がたまたま結びついているだけな気がする。

 

では、おやすみなさい。

明日の日記は睡眠不足で書く予定。

 

おしまい。