おいはぎ

 

今日はWPS writerから。馴れてないからといって使わないのも可愛そうかなと。しかし、昨日の日記は雑だったな。時間が押していた感が良く読める。一方だけ校正した。

 

あと内容的なところだけど、自分はこうだと別の見解を表明されること自体は別に問題ない。問題はその正しさをもって、僕の見解を修正しようとすること。どうでもよくない人に対してほどそういう傾向があるだろうなと。①自分が自分であることは確固たるもので、であるならば②自分の見識は正しい。だから、③この見識は他人にも適用可能で異なる見識の人のことは修正しないといけない、みたいな。①、②はいいとしても、②と③の間にはかなり飛躍があるように思う。それを橋渡しするのが常識とか道徳なのかも。僕は①も②も疑っているから、③も④もありえない。他人の見解は積極的に参考にはするけどそれは正しいからではない。

 

そういえば、ふざけんじゃねぇおじさんは、今日は長めに叫んでいた。うるさくてしゃーない。換気扇とかの雑音から叫びに近いものを聴覚が拾って反響するから、本当に叫んでいるかどうかもわからなくなってくる。素朴な僕は、帰りに近所で集まっていた警察官たちと繋げて逮捕されてくれないかなと思う。うるさいし危なそうだし。そいう感情論とは別の僕は、いや、傷害罪の構成要件にあてはまるとすれば同じ部屋に住んでいてストレス障害になる被害者が居ないと無理だろうなとか、あるいは不法行為に基づくふざけんじゃねぇ差し止め請求権も成立しないだろうなとか考えている。てっとり早いのは仲介業者さんに電話して、○○号室の人が定期的に怒鳴っていてうるさいのでどうにかしてくださいと求めること。

 

夜ごはんのメインがやたらと美味しくて味付けを公開したかったけど、そういう流れではないようだ。

 

そうして、このおじさんの気持ちを読んでみる。ほんと毎日毎日同じ語彙だけど、世界が気に食わないことは分かる。発信せずにため込むよりは当人の精神衛生上マシだとは思うけど。問題は、世界を気に食わないと思っている自分に全然視点が向かないのだろうという残念さ。①と②が不動なのは言葉から読める。言葉って、語彙という自分を伝える道具という面も確かにあるけど、自分を認識するためのレンズみたいな面もあると思う。言葉というか、概念というか。言葉は伝え伝わるものだという認識ではそういう現象は起こらないけど。

 

ところで、やっぱりご飯のことが書きたいらしい。メインの食材はほうれん草とささみと人参とミニトマト。ほんとはほうれん草は副菜のつもりだったのだけど、なんだかクリームシチューぽいものが食べたくなった。バターはないが牛乳はある。なんとかなるだろうって、テキトーに作った。ほうれん草は下茹でせずに水にさらして、オリーブオイルでささみを炒めたところに人参と一緒に加えてちょっと炒めて、水、コンソメ顆粒、牛乳、ミニトマトを入れた。オリーブオイルも少し追加。全然コクは出なかったけど、和風ではなくてどこかのアジアにありそうな料理で美味しかった。ほうれん草の苦みとミニトマトの酸味が良い感じ。オリジナルで美味しい料理ができると嬉しい。

 

はい、どうも。

 

この日記を書く前に想い人の日記が更新されていた。どうでも良いけど、校正して昨日の日記更新したときに来てくれたのかな。読者だったら更新通知が来るだろうしという推定。法律上の話だけど、みなすは反証不可だけど推定は反証があれば覆るっていう語用が好き。素朴な自分の感覚としても採用している。

 

自分が常に、頻繁に、よく、頻度は不明だけど、不機嫌なことが嫌だっていう日記だった。僕はこれを読んでいて、貴方は大丈夫だよって漠然と思っていた。何が大丈夫なんだという直感を俯瞰して疑問だったけど、ふざけんじゃねぇおじさんと繋げればなんとなく言語化できる。単純に世界が気に食わない不機嫌ではなく、世界が気に食わないと思っている自分が気に食わないところまで至っているから。気づいてしまえばなんとでもなるし、ただわめき散らすより自分の中に不機嫌を留められるのはとても理性的だし。この「自分」は肉体的なその人よりはやや広いかもしれないけど。

 

不機嫌で僕が嫌だったのは、母親が不機嫌を発散することによって僕をコントロールしようとしてくることだったけど、他人に期待しないならそういうこともなさそう。個人的に僕も他人に期待はしていないし、期待があったとしても返ってくるのは余剰だと思っているので。

 

他人に期待しないことができるって人間関係においてそうとうな美徳だと思うのだけどどうだろう。想い人擁護ではなく、素朴な僕の見解。何故か。期待が返ってきて嬉しいのは当たり前のことで、嬉しさが関係の原動力だとすれば、嬉しさの提供がなくなれば関係は切れる。期待は結局相手のためではなくて自分の為のもの。相手に対して期待しないというのはすなわち、相手のことを自分とは別の存在と認識していること。期待で保たれる関係ってある意味共依存でしかない。

 

亜種で、近しい人にだけ親切みたいなヤンキー理論もある。

 

それとは別に、対恋人さんなら不機嫌を投げ合ってもええかなとも思う。むしろ投げられたい。不機嫌を投げても良いのだって存在として認識されているから。誰にでも不機嫌を投げている人だったらノーサンキューだけど。でも近しければ不機嫌を投げて良いという認識なら、なんとなくただの椅子な感じがして嫌だな。

 

ただ、怨念に囚われたくないって書いていたところに対して、いや、怨念としてることを原動力とした言葉も好きだからなぁとやきもきするところもある。2年、もっと前になるのか、くらいの日記の文章に怨念、呪詛だっけ、世界をいるって居るみたいなフレーズがあって、当時の僕がなんなら呪われたいってコメントしていたのだけど、当時の僕に賛同する。

 

頭が固いのが嫌だとのことだけど、僕は硬質な貴方の言葉も美味しく食べます。むしゃむしゃ。

 

結局なんでもいいんかいって聞かれたら、貴方が貴方でいる限りなんでもいいですよって返す。何にも期待してません。

 

なんだか恋文チックになってしまった。

 

昨日のカップル考察を読み返したときにも思ったけど、どこ目線だって思われるところが自分の本質として形成されている。もちろん物理的な自分も居る、色々逢ってみたいなぁとか同居人さんうらやましやとかの焦がれる感情はまだ在る。けど、僕は自分が部外者で眺めるというか、観測しつつ観測されるという読書みたいな視点でええかなって。

 

では、皆さんの負の感情が昇華されますように。

 

おやすみなさい。