ぶがいしゃ

 

 

大きな本屋に行きたい禁断症状に勝てずに二駅北の中型本屋に行った。やはり気休め程度に行ったのがバレていたのか、全然呼ばれなかった。お目当ての本もなかったし。法律の棚もなんだか乱れていて、田村さんお疲れ様という感じ。

 

大型書店、というか、丸善に行きたい。どの丸善でも中身はあまり変わらないだろうけど、一番行きたいのは名古屋、次点が京都、そのあとが何の思い入れもない梅田。名古屋は当時遠距離で付き合っていた本の師匠との中間地点で、帰り際に寄ったのが丸善。本を選んでもらったのが記録だったのだけど、特に一方的にプレゼントされるような状況じゃなかったから、お互い相手に本を買って交換するっていうことだったような気がする。何を渡したか覚えてないから定かではない。そのうち発掘されるのかどうか。

 

結局大きめの田村さんでは何も買わず、電車移動中に読んでいたベートーベンをそのまま構内のベンチに座って読み終えた。法律パートはともかく音楽パートは全然知らなくても怒涛に読める。爽快感。ピアノコンクールにも行ってみたくなる。

 

そうして、最寄駅にある小さめの田村さんで、竹内ゆゆこさんの「あなたはここで、息ができるの?」を新小説枠で購入。竹内さんはとらドラ!のアニメで好きだったからアニメの人と思っていたけど、とらドラ!ラノベだった。高校生男女グループの打算とか闇の部分が良かった。キャラもかわいらしかったけど。

 

ところで、たった二駅の移動だけど確かに何かが解消されたなぁと感じたことから考えた。カントさんのいう空間のアプリオリ性。僕は経験の前にというよりは経験という観念が生まれるの前の収集であって、厳密には経験に含まれるのではないかと思うわけだけど。

 

たぶん、自分が存在しているという空間における位置というのが最初だと思う。この自分の位置と見える対象の間を距離とする。物理的世界において自分と対象の位置を測るのはとても大事。この位置の移動可能性を空間としている。だから、自分の体で動いてなくても景色が変われば移動になる。ソーシャルディスタンスはとても良い。常識になればと思うけど、飲み会の席の距離感とか無理だろうな。空間の効率的利用に馴染まない。この物理的距離間の観念って、精神的なものにも応用されていると思う。物理的距離と精神的距離は相関している、というような。僕は空間もとい距離の観念がないと物事が把握できないというカントさんの説には反対したくはある。物理世界でも精神世界でも。

 

あと、時間のアプリオリ性もなんとなく同じ軸なのだろうなと。外界の変化、例えば日が昇って落ちるみたいなことを時間の流れとするのは時間の観念ができあがった後のこと。生来は、場面場面で自分が違うことを繋げる道具として時間が形成されるのだろうなと。ある場面ではぐずるし、ある場面では笑っているし、ある場面ではうとうとする自分を同一性があるものとして把握するためには、時間という観念が不可欠じゃないかって。変化という時間の流れがあっても自分は自分として継続していると。

 

ちなみに、カントさん読んでもこんなことは書いていません。あくまで僕が読んだ部分から再構成したオリジナルの解き方。この文脈だったら時空は経験の前にあることが納得できるということ。

 

あんまり読み過ぎないようにしていたのだろうなと、最近になって思う、推理とか推論の範疇ではなくて直感のことだから。照合できて嬉しいことでもないし。例えば、直近の元恋人さんが、母親からプレゼントされた高価なものを良く失くしてしまうって言っていた。具体例は高級ブランドのストールだったかな。大事にしたいと思っていたとか、母親自体も大事だって意識としては発言していたけど、僕は失くすのは無意識からの抵抗ではなかろうかと読んでいた。無意識では母親のことが嫌いで、それを一般論で抑圧しているから抵抗として現実化する。でも、この解釈を当人には言えるべくもない。どちらかの一生が尽きるまで付き合っていく人なのだから、ぽっと出の僕が言うことでもないし、言ったところで何かが変わるわけでもないし。

 

僕もよく大事なものを失くしていた質で、なんで大事だと思うほど意識から死角になるのだろうって考えた結果、ほんとはそんなに大事ではないと認識すれば良いのだなとなった。一回だけだけど、自分を失くしたこともある。夢遊病とか記憶喪失とかのレベルなのだけど、元々恋人さんに関東へ会いに行った帰りに鍵を失くしたことに気づいて、知り合いと飲み散らかして、気付いたら普通に商店街を1人で歩いているの。ほんと、ストレスが限界値を越えていたのだろうなと読める。よく生きていたものだ。知り合いの家に泊めて貰おうと思っていたのに、わざわざ行かない選択をするとか。そのあと疑似ホームレス生活が1週間ほどあったのかな。1月の真冬の話。

 

自分の時系列を読むと、まぁまぁやばかった時期がいっぱいあるなぁという感想。病院にかかった時期はないけど、世界と自分の齟齬がどうも埋められなかったのだろうなと。

 

どんなに主観的に大事だって思ったところで、その主観で何か現実が変わる訳ではない。ほんとうに大事だったら、先に現実がある。義務を帯びた言葉ってだいたいは自己暗示のように思う。

 

今はとても穏やか。やっと名が体を現わしてきた。悠々自適の悠くん。

 

 

そういえば、このご時世の情報源はテレビとは別にあるのだけど、アメリカでは感染死亡者より自殺者の方が増えるのではということらしい。ソーシャルコミュニケーションがなくなったら死ぬ方が楽になるのかどうかは知らないけど、ロックアウトは政治として不正解だったのだろうなって。国家にとって人は資産なので。

 

自分の存在意義が関係しかないっていう観念は、きっと笑いごとではない。自殺がタブーのキリスト教圏内で増えるってなかなかただごとではないような。世界が関係を取り去った後にも貴方は貴方で居られますかと問うているような。

 

日本はロックアウトも緩かったし、もともと関係を大事にしているようでまぁまぁ個人主義だから大丈夫な気がする。何が違うんだろうな。

 

世界は明らかに変化したから、日常を退屈だと思って過ごしている人には良い刺激なのかもしれない。

 

やれやれ。

 

個人的世界の話。

 

読み返し枠が終わったから色々我が家図書館を物色していたら、「植物図鑑」を見つけたので、僕も読むことにした。この表紙のイラストってたぶん森見さんの「夜は短し歩けよ乙女」と一緒の人だ。幻冬舎文庫だし。正解はどうでも良いこと。

 

で、植物図鑑だから表紙の後に物語に登場する植物の写真が載っているのだけど、見ていたらネジバナがあってびっくりするよりぞっとした。認識の死角とタイミングと。タイミングが合う人は僕と縁があると個人的に思っている。モモも縁があったのに、早々に撤退されてしまった。

 

これ読んでピーマンの胡麻和え作ったなぁ。

 

 

僕と想い人には縁がない。僕が無理やりつくっただけ。

 

想い人と同居人さんの関係が植物図鑑みたいだって思ったのは、何か契約関係めいたものが読めたから。物語では最終的にというか最初からというか情があって、うまくいったのかどうかは忘れた。

 

初期のまだタイムリーに返信をくれることがあったときに、寂しくありませんようにって祈りたいって言ったら、共同生活をしているパートナーは居るけどそれと自分の寂しさとは関係ありませんって硬質に応えられて、ごめんなさいとなった。

 

でもこれって、2通りの読み方がありそう。

 

あと、まぁこの話は直に逢えた時で良いか。放っておけないから好きなのか、好きだから放っておけないのか。

 

毎日読める日記も、いつまで在るんだろうと思うと切なさを帯びてくる。

 

最後。

 

言い換えの不完全性って、突き詰めれば創作に至るのだろうなという展望がある。僕が日記の中でどれだけ自分のことを正確に描写しようとある意味では架空でしかなくて、であるなら、完全な架空の世界を創っても構わないかもしれない。

 

という知見。

 

では、皆さんが悠々自適でありますように。

 

おしまい。