ぶれぶれのせかい

昨日の日記はコピペを二重にしてしまって無駄にパラレルワールド感が出ている。わざとじゃないけど、それっぽい。

 

でもパラレルワールドはほんとにどこにでもあると思う。例えば、村上さんの小説のどれだか(ノルウェイの森かな)に、実家で可愛がっていた犬が死んだのを母親が教えてくれなかった数カ月の間は、主人公の中では生きていたというずれを認識して云々みたいなものがあった。

 

あと、人と人の関係で、何か新しい側面を発見して「意外」って表現することとか。これって、自分が思う相手の人格と相手の言動のズレで評している。「そうなんだ、知らなかった。」となるなら、別にパラレルではないけど。とりあえず経験側から暫定的な人格を想定しないと人と接するのは無理だから、暫定的であるうちでは問題ない。

 

ただ、これを、これを大雑把にこういう人はそういうものだって人格を決めつけると、想定外の言動が出てくると、意外を越えて反発になる。もっと行くと、経験則で嫌だった人と同じ言動を見かけただけで、その人はこういう人格だって攻撃しだす。こうなったら、パラレルではなく、もうどこに生きている人か分からない。認知の歪みって言葉を聞くけど、これってもはや生きている世界が交わらないところに在るのではと思う。

 

うん、物理的な世界は同じでも、全然交信できない世界というのは普通にある。

 

 

 

あと同一肉体間のズレも認識しづらいらしい。

「人は何故腰痛を選ぶのか」はほんと面白い。自分が思っている人格と、ほんとうの人格にずれがあると、体に慢性的な痛みが出て、その痛みの理由であるずれを認識することで脳が戦略を続行できなくなって痛みが解消するって。

 

人は自分すらずれている場合が多い。

まぁ自己像って暫定的な他己評価の集積だから、これがずれるのは当たり前な気もする。

 

数なのか強度なのかは微妙なところだけど、他己評価に全く影響を受けていない自己像はきっとほぼ無い。

 

ということで、やはり世界はパラレルパラレルじゃないかという説。

 

僕もそうだけど、パラレルを認識できるのは強み。

他己評価で意外だ意外だと言われまくってきたから、もう自分じゃないところで生きていたのだろうと自覚しているし、凄いも知ったこっちゃないし、良い人評価もどうでも良い。

 

良い人と評価されないように良いとされていることをするのはどうしたら良いのだろうはある。祈りはその1つか。

 

 

さておき。

 

物理的世界に戻って。

 

この前体温を移動させた人の平熱がやたらと低いと今日の交信で言っていて、体温の移動について考えていた。

 

精神世界の移動は温度を持たないけど、手を繋ぐと温度の移動がある。どちらの移動も心地良いけど、物理的世界で生きている以上、温度の移動の方が印象は重い。そういえば今日の夢もそんなんだった。全然知らないみたこともない人だったけど。

 

では、そもそも体温とはなんぞや。

 

僕は平熱がまぁまぁ高い方。末端は冷えることもあるけど、幼少期は祖父母に湯たんぽのようだと評されていた。体温はカロリー換算できるものだし、世の手を繋いでいるカップルも自分の熱量がどう移動しているかはそんなに気にしないと思う。

 

僕は手汗マンだけど、かくときとかかないときがあって、かかないときはぶれている自分じゃないとき。肉体的パブロフの犬

 

添い寝も好きなのだけど、最終的には離れて寝ることになる。

最近はそんな機会なぞないが。

 

で、これを分析すると、僕は体温の移動とか交換は好きだけど、混じり合ってしまうと嫌なのかなって。これは自分が返ってきているような感じが嫌なのか、単に暑いから嫌なのかは分からないけど。

 

 

何が気になって居るかって自分が分からないのだから文章化もできない訳だけど、物理的に場所を取るっていうのがキーワードなような気がする。

 

 

最後。

 

もう少し他人にてきとーで良いのかって思ってきた。他人の中の僕像はその人のものだから尊重しようと振る舞っていたけど、別に僕像がぶっこわれたところでその人の世界はなんも揺らがないわなと。これは他人を尊重しているようで自分を保守的に見ている感覚。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

世界のずれ

 


今日は少しだけ活動的。夕方から活動して3時間くらいで、電車移動して掃除機とマウスポケット六今日は少しだけ活動的、夕方から活動して3時間くらいで、電車移動して掃除機とマウスポケット六法を買って、スーパーで買い物、クリーニングに出していたスラックス回収、帰ってきて、来週分のシャツをアイロンがけして、少し掃除機使ってみて、水を買い忘れたからコンビニに行って、お風呂溜めて弁当のおかず作って、は通常営業だけど。

掃除機は、現品限りの蚤の市みたいもので買った。なんとなく直感的に引かれた、ワインレッドの細長いやつ。ほんとは紙パック何を買えばいいですかとは聞いておきたかったけど、店員さんあんまり知らなさそうだったからやめておいた。メーカーの人も居なさそうだし。

軽くて良い。使い方はこれから仲良くなっていこう。

マウスはどっちでも良かったのだけど、蚤の市展示品限りだから梱包に15分くらいかかるって言われたから店内回っている時に思いついて買った。インターネットのWordのアイコンみたいな色の有線の小さいやつ。なかなか快適。文字を打つときにタッチパッドに触れてしまって画面が変わるのがめんどくさかったから。

まぁ、物は道具だから、特に執着はないのだけど。
と、言い出すと自分も結局自分の為の道具かなという話になる。随分と操作性が良くなっているけど、まだまだ物足りない。なんか矛盾に満ちたフレーズだけど、結局そういうものなのかなと。器と本質の未一致。

六法はこの前の間違えたやつではなく、ちゃんと新しいもの。令和2年度版。ゼミの教授が法律は条文が教科書で、専門書は参考書だって言っていたのを思い出す。今日は法律の話の回ではないから省略。

これを見てそういえば令和だったなって思う時間感覚について。これは個人的には結構性格な感覚だとしている。暦は何のためにあるかっていうと、共通項ないし統一化、あるいは指標。

暦っていう道具を発明した人はなかなか賢い。時間の感覚はそれぞれ誤差があるから、基準を作って皆それに帳尻を合わせようかって。弊害として、休日にどんどん時間が消費されていて無為に過ごしている感みたいな相対的罪悪感が芽生えるわけだけど。

自分の時間なんて自由に使えば良いとはなりにくい。


タイムマシンができないのはここ。
時間は人工的で恣意的な区分けでしかない。肉体が衰えて死んでいくっていうのも、自然で見れば、ただの循環のプロセスで、種で捉えたら、当たり前ではと、アリの巣とか。

あぁ、だから進化っていう観念が必要だったのか、ダーウィンさん。生物が進化するためには時間が大事って。数学に時間の観念を組み込むのもだいぶ時間がかかったらしい。


この話も前置きでしかなくて。

素朴なパラレルワールド理論。

今日、掃除機を選んでいるときに、母親から電話があった。僕が「心配」っていう言葉に違和感があるのはこの人が原因。心配しているのだから時々は連絡しろよって、なんか論理がおかしくないかと。

本当に元気でやっているのかなぁって心を配っているなら、生存確認できてよかったってことにならない? これを、自分が定期的に確認したいから連絡して欲しいって希望されるなら、まだ分かる。こっちが心配しているのだから定期連絡するのが当たり前だろうって観念が嫌でたまらない。貴方が私の行動を規定するなと。

これって、定期連絡したところで、相手にとってはうれしくともなんともないみたいだし。

まぁ単に表現の問題だっていうのは分かるけど、僕は心配っていう観念は好きとしも、貴方を心配しているって表現する人は好きくない。心を配るなら心に留めとけよって。心配って、たぶん、心を配っている状態を見た第三者が造った言葉だと思う。主観で使う言葉じゃない。

 

あと、素朴に自由を語るとき、自分ができないことに向いていると思うのだけど、自分が現在できていることには全然目が向かないのだろうなって。自分の不自由を前提とした自由なら、いつまでたっても自由にはならん。


ここで、並行世界が出てくる。

自分の主観では存在しないとしても、人間関係において個人は微妙に誤差がある世界で生きている。同じ経験をしても、同じく再現できるわけでもないし。ここを個性とか人それぞれと評すか、微妙にずれた並行世界とするかは自由だけど、僕は後者の方が適切だとしようかと今日思った。

絶対に話が通じなさそうな人は、自分が生きている世界からずれたところで生きていると考えた方が、気楽だからというだけ。


そうやって微妙にずれた世界を生きている中で、ずれが少ない人と交信できるのがこの世界なのだろうな。


やっぱり、すべての人が同じ世界で生きているみたいな唯物論には納得できない。
最小公約数みたいな話なのか(こんな概念ないけど。

結論。僕が好きだって感じた人は、ややずれている人達。

時間切れなのでおしまい。

 

 

法を買って、スーパーで買い物、クリーニングに出していたスラックス回収、帰ってきて、来週分のシャツをアイロンがけして、少し掃除機使ってみて、水を買い忘れたからコンビニに行って、お風呂溜めて弁当のおかず作って、は通常営業だけど。

掃除機は、現品限りの蚤の市みたいもので買った。なんとなく直感的に引かれた、ワインレッドの細長いやつ。ほんとは紙パック何を買えばいいですかとは聞いておきたかったけど、店員さんあんまり知らなさそうだったからやめておいた。メーカーの人も居なさそうだし。

軽くて良い。使い方はこれから仲良くなっていこう。

マウスはどっちでも良かったのだけど、蚤の市展示品限りだから梱包に15分くらいかかるって言われたから店内回っている時に思いついて買った。インターネットのWordのアイコンみたいな色の有線の小さいやつ。なかなか快適。文字を打つときにタッチパッドに触れてしまって画面が変わるのがめんどくさかったから。

まぁ、物は道具だから、特に執着はないのだけど。
と、言い出すと自分も結局自分の為の道具かなという話になる。随分と操作性が良くなっているけど、まだまだ物足りない。なんか矛盾に満ちたフレーズだけど、結局そういうものなのかなと。器と本質の未一致。

六法はこの前の間違えたやつではなく、ちゃんと新しいもの。令和2年度版。ゼミの教授が法律は条文が教科書で、専門書は参考書だって言っていたのを思い出す。今日は法律の話の回ではないから省略。

これを見てそういえば令和だったなって思う時間感覚について。これは個人的には結構性格な感覚だとしている。暦は何のためにあるかっていうと、共通項ないし統一化、あるいは指標。

暦っていう道具を発明した人はなかなか賢い。時間の感覚はそれぞれ誤差があるから、基準を作って皆それに帳尻を合わせようかって。弊害として、休日にどんどん時間が消費されていて無為に過ごしている感みたいな相対的罪悪感が芽生えるわけだけど。

自分の時間なんて自由に使えば良いとはなりにくい。


タイムマシンができないのはここ。
時間は人工的で恣意的な区分けでしかない。肉体が衰えて死んでいくっていうのも、自然で見れば、ただの循環のプロセスで、種で捉えたら、当たり前ではと、アリの巣とか。

あぁ、だから進化っていう観念が必要だったのか、ダーウィンさん。生物が進化するためには時間が大事って。数学に時間の観念を組み込むのもだいぶ時間がかかったらしい。


この話も前置きでしかなくて。

素朴なパラレルワールド理論。

今日、掃除機を選んでいるときに、母親から電話があった。僕が「心配」っていう言葉に違和感があるのはこの人が原因。心配しているのだから時々は連絡しろよって、なんか論理がおかしくないかと。

本当に元気でやっているのかなぁって心を配っているなら、生存確認できてよかったってことにならない? これを、自分が定期的に確認したいから連絡して欲しいって希望されるなら、まだ分かる。こっちが心配しているのだから定期連絡するのが当たり前だろうって観念が嫌でたまらない。貴方が私の行動を規定するなと。

これって、定期連絡したところで、相手にとってはうれしくともなんともないみたいだし。

まぁ単に表現の問題だっていうのは分かるけど、僕は心配っていう観念は好きとしも、貴方を心配しているって表現する人は好きくない。心を配るなら心に留めとけよって。心配って、たぶん、心を配っている状態を見た第三者が造った言葉だと思う。主観で使う言葉じゃない。

 

あと、素朴に自由を語るとき、自分ができないことに向いていると思うのだけど、自分が現在できていることには全然目が向かないのだろうなって。自分の不自由を前提とした自由なら、いつまでたっても自由にはならん。


ここで、並行世界が出てくる。

自分の主観では存在しないとしても、人間関係において個人は微妙に誤差がある世界で生きている。同じ経験をしても、同じく再現できるわけでもないし。ここを個性とか人それぞれと評すか、微妙にずれた並行世界とするかは自由だけど、僕は後者の方が適切だとしようかと今日思った。

絶対に話が通じなさそうな人は、自分が生きている世界からずれたところで生きていると考えた方が、気楽だからというだけ。


そうやって微妙にずれた世界を生きている中で、ずれが少ない人と交信できるのがこの世界なのだろうな。


やっぱり、すべての人が同じ世界で生きているみたいな唯物論には納得できない。最小公約数みたいな話なのか(こんな概念ないけど。

結論。僕が好きだって感じた人は、ややずれている人達。

時間切れなのでおしまい。

 

 

 

認識

掃除機を買いに行くのは逃した。アリの巣が構築されていくのを眺めるアプリをやりつつごろごろしていたから。髪も切るかどうか迷うところ。毛量的にはあと一週間くらいは大丈夫かと思うけども。

何について考えようか。

日本史の四大公害なんて風化しているし、社会の教科書でもなんとも薄味で書かれていたけど、教養の日本史ではなかなかの生生しさだった。水俣病の時、猫がけいれんしながら海に飛び込んだとか。本当に生々しいのは、そんな異常事態があったのに3年放置して子供が発症したという部分。社会に頼っていてはなんにも守れない。結局企業の利権で発覚が遅れたみたいだし。これって科学的見地が遅れていただけだとすれば、ここから先も起こりうるもの。

PM2.5が認知症のトリガーになるっていう研究結果も出てきているみたいだし。
やっぱり、日本語だけでは情報源に限界があるなぁと思う次第。でも情報って、結局は自分がみたいものしか見つからない訳で。世界とは良くできている。

だから、客観的世界論は全然信じられない。
その客観は主観の延長だろうって。

なんだっけ。

平等とか差別とか権利とか義務とか。


子供憲法というがちょっと流行っているらしい。いじめは犯罪だとかなんとか。確かに暴行とか障害とか脅迫、窃盗も全部犯罪だけど、少年法があるし法的なルールで被せたところで何が解決する訳ではないとも思う。大人だって法律知っている人なんてほとんどいない。だから専門職がある訳で。

憲法をちゃんと知っているのが大人だったらとっくに世の中変わっている。

法は観念だけど、文字化してしまうと後はどう捉えるかということになる。

自由には責任が伴うっていうフレーズは良く聞くけど、この自由を社会的なものとするか、憲法上のものとするかで意味合いが全然違う。

社会的なものだとしたらそれは分かる。自由ってわかり易いレールから外れることで、外れるデメリットも享受しなきゃならんよねって。

ただ、これを憲法上の自由とするなら全然違う。表現の自由を社会に適用する人がいるけど、この自由は、選択肢の話。選択肢すらない時代の人が作り上げてきてくれたカタログを国から制限されないということ。だから、個人間で表現の自由って使う人は語彙がズレている。

自由にも色んな意味がある。


対等とか平等もそう。色んな意味がある。

人がこの言葉を語るとき、自分というか、自分が観測する範囲で自分が属している分類が割を食っているっていうところがあると思う。

本当に個人間でこれをしようとしたら、労力とか対価ではなく、時間で判断するべきだと思うけど、仕事って生産性より拘束時間みたいなところがって、義務教育から大学まで、教えられることは時間で区切られている訳で。時間の対価がこの時点でバグる。

憲法上の平等論も裁判にするとなったらどういう不平等かっていうのを具体的に主張しなきゃならないから、結局自分が割を食っていることが気に入らないっていうのが本音であって。

普通に考えて、人間関係ってどう調整したところで対等にも平等にもならないと思っている。問題は、この不均衡をどう扱うか。不均衡で割を食っていると思っている人は関係している人に高圧的になるだろうし、自分が選ばれて申し訳ないって思う人はへりくだるだろうし。

世界って本質的にはこれだけだと思う。僕も自分が人間関係においてかけたものが帰って来ないことに不満を持っていたときもあったけど、これって相手によるだけなのだろうなって。相手が求めない人だったら良好になる。

人に対して求めないって凄く難しいことだけど、要は、自分がやってることは、自分がしたいからやっているだけで、対価なんていらないって自責にできること。

返って来ないことが悪いことだっていう観念から離脱できてよかった。ほんとに。


対価がないとできないって動物にも劣りそうな観念。
でも、対価が当然の世界ではこれが人間的だったりする。

こういう意味で、世界は客観じゃなくてあくまで主観だろうという説。
神秘的な意味ではなく、泥臭い実感として。

人間関係も、都度都度、自分に合った人と出会える仕様なんじゃないかと思っている。
自分が変わっている限り。


僕の世界でいうと、どんどん変わっている。人は瞬間を認識できないから、結局自分を翻るためには記憶に頼るしかないけど、トラウマじゃない記憶を生々しく再現できるようにならないと、自分で居られないような。

知らんけど。


おしまい。

 

 

 

 

迎合(後

 

 

はい、後編。

 

結局、税金のなんぞやなにも語っていないという。

租税法の解釈って全然好きではない。司法がそんなに偏って良いのかってなるけど、そもそもが国基準だから。どれを税金の対象にできて、どれをしないようにするかの分け方。

 

刑法も恣意的と言えばそうだけど、かなり人間味はある。情状酌量とか執行猶予とか。

なんだかんだ人情論なのだなと思うと分かりやすくなる。

 

まぁいいや。

 

前編では長々とお金の話を書いていたけど、僕はお金に関しては、ほとんど対価関係を重視しない。関係を金銭に換算されると、なんだかなぁって思う人。

 

別にこれ自体は否定しないし、分かるけど巻き込まれたくはないなと。例えば、かつての友人は凄くお金に細かくて、割り勘の平等だったけど、僕が静岡に会いに行った時は交通費分割しないんだなぁって思うと、結局自分が遣うお金の平等かって思う訳。それに対しての不満ではなくて、平等が一貫してないなって思うだけ。まぁトータル払って貰った方が多いかもしれないとは思うけど、なんとも言えない感覚がある。

 

別にどうでも良いんだけど、本人の思想なら一貫した方がいいのではと。

金銭で換算するのであれば、交通費の分払うわってなる方がまともな平等ではなかろうか。別にこれに対して、自分が払った分が平等じゃないから苦言を呈していると思われるちと誤解になる。僕は単にこの人に会いたいから行っただけ。なんだか元気がなさそうだったから。んでそれに対して対価は求めてない。

 

まぁ、一貫するって難しいとは思うけど。

 

 

翻して、山口に行ったときは気持ちよかった。

金銭ではなく、時間の対価理論だったから。金銭の対価と時間の対価の似てる非なるものは、金銭の交換は相対的だけど、時間は絶対的だから。勝手にカラオケで払ってホテルでも多めにお会計で支払われたことは忘れない。金銭的平等ならこういうのが一貫していると思う。

 

まぁ、別にほんとにここはどうでも良い。

 

時間的平等性が一番大事。

 

お金をかけたことより、時間をかけたことに重きを置いてくれる人の方が関係できる。

 

時間は絶対的なものでどれだけお金をかけても償えるものではない訳で。

選ばれた時間に対して申し訳なく思ってくれる方が平等の関係が構築できると思う。

 

 

他人が自分に費やす時間なんてどうでも良くて自分が他人に費やす時間も物理的に制限されなければほとんど意識できないはず。

 

という意味で、僕は自分以外でも時間が遣えるならそっちに費やしてくれということで人間関係を断捨離した。断捨離できるということは、好きではなかったということになりそうだけどそうでもない。好きだけだけど、僕の為に時間を使ってほしくないという考え方。

 

 

僕が時間を選ぶのは、早いもの勝ちみたいなところがある。

 

 

やれやれ。

 

 

ここで、神秘学的な見解がなんとなく答えていて。

修行は知らんけど、結局は自分の内側の支配者を見つけなきゃならないっていう見解。支配者とは外的な刺激に影響されない自分のこと。

 

こと自分に関しては、僕の支配者はいつも誰かの為になれない自分について悔しがっているところがある。くやしさで物理的に泣けてくる。

 

同じ支配者なのかは知らないけど、自分も含めて人の言動はどうでも良いと思った方が自分が快適になるという方向性もあって。

 

どっちも支配者だとは思う。

 

僕は自分に何かをしてくれる人を求めていない。

 

自分に時間をかけてくれる人はまぁまぁ気になる。自分の文章が読まれるって、関係性としてえっちぃような。卑猥というより生々しい。

 

 

時間に関しては需要と供給が合わないから、あんまり厳密に考えている人はいないだろうけど。

 

 

まぁ、僕の存在は誰のためにもなっていないと自覚している。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

迎合(前

今日の食卓も贅沢ではある。600円くらいはしているはずに。ナムルの残りとつけ盛りの続き。加えて、88円アボカドの半分とミニトマト3個のごま油と粗塩和えと、フリルレタスと三個パックの豆腐1個分サラダ。で、今日のご飯の七割くらいを占めるおつまみ缶。ムール貝の白ワイン煮。うまい。

 

贅沢ばかりしています。

 

現実離れしたことばかりじゃなくて、少しは真面目なこと書いておこうかな。

 

全然関係なく、明日は掃除機買いに行こうかと思ったら、そういえば、増税前の駆け込みぽいなって思って。最近やたらと家とかマンションとかが建っているのもそういう下りかと。まぁ仕事もこの関係で忙しくなっているし。これもそういえばというレベルだけども。

 

そもそも消費税とは、って考えると、なかなか不可解ではある。まだ年貢の方が分かり易かったかも。贈与税相続税は年貢に近いものがありそうだけど。

 

まぁ考えようが考えまいが、結局払わなきゃならないものだから、思考停止して良いと思う。思考経済上のショートカット。他に考えなきゃいけないことはいっぱいあるだろうし、という国家政策。

 

租税法の本を最近やっと読み始めたけど、租税法の歴史自体、凄く浅いらしい。まぁ法解釈でなんとかしようっていうのがなかなかなじまない分野だろうし。法律学って事後的なものだから、立法機関が作ってしまった税制が不当だとは言えなさそう。

 

税金とは、社会への参加費みたいなものだっていうパンフレットを見たけど、参加したくてした訳ではないっていう素朴な感覚を度外視していて、なんとなく宣伝が下手だと思う。いや確かに、社会保険料とか住民税はなんとなく分かる。使い道が直結はしているだろうし。所得税も、所得を得た環境を作っているのが国だっていう意味では、なんとなく分かる。

 

でも、消費税の観念って、素朴に考えてもなかなか納得できないと思う。選択した商品とは関係なく対価が上乗せされて、そのお金はえこひいきした企業には全く流れないという不合理。依怙贔屓じゃなくて、自分が払うお金が増えるのが嫌だっていう素朴な感覚に対しても説得力がない。3パーから5パーになったときも、5パーから8パーになったときも、生活の豊かさは全然変わらなかった歴史があると思うけど、なんでこうなっているのか。

 

 

でも、法人税なら、租税法は機能すると思う。相続税とか贈与税も、企業くらいの資産を持っている個人に税金をかけましょうっていう話であって。

 

消費税も歴史上の、年貢に係らない特権階級を優遇しているに近いけど、富裕層の方が高い買い物をするから、平等という見解もなんとなく分かる。

 

けど、経済の活性化は一瞬しかないだろうなぁ。駆け込み需要だけ。

本当に大事なのは、生きていて良いのだって思わせながら経済活動を活性化させるために、細々した税は撤廃させて、上りだけ徴収するしたたかさでは。

 

政治家がへたくそなのかなんなのか。

 

なんとなくゲーム理論になじみそう。

人がやすやす死ぬゲームだけど、そういうこと。

 

前編終わり。

 

誰でもない

 

今日はなんとなく食卓が盛り上がっている。人参と大根のレンチン豆板醤ナムル、豚もやしのウスター炒め、フリルレタスとトマトとブロッコリースプラウトのマヨサラダ。と買ってきたつけ盛り。

 

野菜を食べろと富裕層が言うけどこちとら安い300円の牛丼しか食べらないとか、なんというか、傾向で語る人が多いよなぁという界隈。外食自体が贅沢品みたいなところあるけどな。やる気がでないときにはコンビニでレトルトカレー買ってみたり。ないのはお金じゃなくて、時間ではと思わなくもない。今更スキル磨く時間もないという袋小路。確かにお金があるほうが、優雅に生野菜たっぷりスムージーとかたくさん摂取はできそうだが。

 

別に人参大根の皮まで使うみたいな完璧主義にする必要もないし、勿体ないで栄養摂取の機会を逃すのもどうもよくない。牛丼ばかり食べるなら、もやしを炒めたのと納豆ご飯の方が安いし。

 

まぁ食生活なんてひとそれぞれの自業自得だから、自責にしている分にはなんでも良いと思う。でも、他責にしだすとよろしくない。

 

あと、食で思うのは、残すのはもったいないという人は、人の口にさえ入れば良いのかっていうのは素朴な疑問ではある。まぁ排泄は人にとって忌避の対象だし、人の営みって生ごみも焼却処分だし、排泄も自然には返してないし。本当にもったいないを突き詰めるなら、食が細くて食べすぎると戻してしまう人とか、虚弱で下痢気味の人はどうかとか、それこそ拒食症の人とかにたくさん食べさせようとすることももったいないなのではって。この辺考えていくと、なかなか面白いと思う。

 

自分の所有物だから、全部自分が摂取しないと消費しきれていないかんもあるだろうし。

 

まぁ、僕の素朴な感覚は、もう一度言うと、人の食生活はその人のプライベートだからどうでも良い。それよりも他人の食とか社会の食とかに口を出そうとする人の方が気になるなぁという感じ。

 

まぁ食は性と同じくらい原始的だから、素朴な生理的嫌悪感は人にとってかなり強いのだろうなと。要は食もえっちぃ。

 

 

さておき。

 

 

今日の夢は、神様の話だった。といっても神秘的なものじゃなくて、小学56だっけ年生時の担任が、図解で神様に好かれやすい精神性とは、みたいなことを授業するもの。日本の神様の考え方って、ギリシャ神話と近そう。求めるばかりの人には施したくないだろうし、ちゃんと感謝しましょうみたいな流れだった。神様もえこひいきします、みたいな。

 

図が夢に出てきたのも初めてなのではなかろうか。

 

これで思ったのは、結局人もそうだよなぁと。

祈りが喜ばれるのは、この文脈だとなんとなく分かる。願いは利己的なもの。わかり易いのは心配か。

 

誰かれがつつがなく生活できていますように、誰かれの問題がさっさと解決しますように、誰かれの体調が安定していますように、僕以外の全宇宙がほどほどに満たされますように、っていう流れ。頻繁に交信している人は祈りの対象にはならない。だって、祈りよりは現実的な作用及ぼせるし。

 

そろそろ宝くじ当たるのじゃないかって空想する。誰にいくら分配しようかって。あんまり高額過ぎると贈与税かかるからなぁって現実的なものも含めて。どれだけ壊れているのかはよく分からないところ。生活に囚われられなくなったら、起きてから寝るまで本ばっかり読んでいると思う。

 

 

ともあれ、なんだか、超感覚的世界に入るにはっていう本の修行を体現している感。生活とは全く関係ない時間を5分でも良いから持ちましょうってことらしい。自分の感情とか記憶とか感覚を精査してみる時間を作ると精霊が出てくるとか。出てきたことないけど。

 

スピリチュアル全般そんなこと言っているような。

瞑想法とか。

 

これって、たぶん日常が超常みたいに生きているからだろうと思っている。

これ以上余計な超常は要らない。

 

パラレルワールド

 

本は、やっぱり小林さんにしてはキレがない気がする。地震とか水害とか液状化現象とか、センセーショナルな物語で、被災者にとってはフラッシュバックして読めないだろうなとは思うけど、そうでもなくて。

 

一番は、母親の話し方。

○○だわ、っていう「わ」の語尾が多すぎて。今時の女性ってそんなに連呼しないような。関西弁なら分かるけど標準語圏内だし。これの違和感が伏線だったら良いのになーとは思っているけど。

 

 

で、現実的なパラレルワールドが存在するかどうかという命題。

 

これは社会がとか世界がって考えるとSFになる。SFパラレルワールドとかバタフライエフェクトも好きだけど、こういう世界が存在するかというとなかなか証明はできない。個人的には、あるかもしれないなっていうくらい。

 

でも、自分に限定された世界だったら、普通に在ると思う。分岐点は細々とあって、これをした世界としなかった世界とか。そうして自分が存在している世界はそのパラレルワールドの中の1つでしかないというような感覚もあっていい。まぁこれだと並行世界は観測できないから、ないという結論も分かる。

 

では、ここから先では。

自分が今何をするかによって、ここから先の並行世界のどこに分岐するかを選べる。という意味ではパラレルワールドなのではって。

 

 

やれやて。

 

僕に出逢ってしまったのは選択肢が失敗したのだろうなとは思っている。

僕の中では全部正解ルートだけど。このルートの話って変な話、僕がまともに大卒で就職していたら早い者勝ちで、番になっていた気がするという意味では、世界も色々あるなぁと思う。

 

他人との関係において平気で自分を殺す自分を守るために無意識が選択してきた世界がここにある。

 

 

おしまい。

 

 

自分史

炒め物に使える食材がなんだかんだ高いから、超薄味の煮物にした。大根が昨日安くなったのと、人参が今日安くなっていたのと、しめじと豚肉。キノコは値段が安定しているからやたらと推されている。ピーマンは78円で安いと思ったら、100g単価という。初めて見た。

 

ほぼ素材の味だけどなかなか美味しい。顆粒出汁もみりんも酒も入れてないけど、なんとでもなった。キッチンペーパーの落とし豚で豚肉の油も取っているから余計に。あんまり評価は得られなさそう。もう少し煮込めばくったくたにになったろうけど、レンチン時短で柔らかい。

 

さておき。

 

人魚は、、、の本は読み終わってしまった。なかなか綺麗な文体で美味しかった。歯ごたえも柔らかい。明日からはパラレルワールド。小林さんだと、玩具修理者が好きなのだけど。

 

 

唯識論の続き。というか昨日の日記誤字がやばいな。お目汚しすみませぬ。格助詞が違うと意味が全然違う。理想の関係の所は、僕の容姿も精神傾向もどうでも良いけど何故か在る関係ということ。あとグルーピングでもなく。

 

の前に。そういえば、今日の夢は物凄い不快感を伴っていた。一日なんだか調子の悪さを引きずっていたし。誰が出てきたかというと、姉。

 

姉が魚介系のパスタを盛っていたシーンなのだけど、僕が何かを言うと、凄く嫌みたらっしく返答があって。僕は姉が嫌いなのだなと自覚した。むしろ女性性で一番初めに学習したのは母親ではなく姉だったのだろうなと原初の女性に対する恐怖心を思い出した。

 

家来契約書みたいなものも小学校低学年で書かされたし、私は頑張っているのに、然ばかり優遇されるみたいなことは頻繁に主張していた。あんまり聞いてなかったけど。母方と父方の祖父祖母がなんだかんだ守ってくれていた感。覚えてないけど、低学年期は結構な暴力にさらされていたんじゃないかと思う。僕が成長しだしたの高校入ってからだし。30センチくらいは伸びたような。

 

母親が怒鳴り散らす理不尽な人の象徴なら、姉は女性性の象徴。どれだけ頑張っても父方のおじいちゃんは勉強について認めてはくれなかったっていうエピソードを大人になって妹と3人で話している時に聞いたけど、どう考えても盛っているような気がしてなんとも。

 

ちなみに、僕は祖父に、お前は勉強の才能があるって言われた記憶がある。そんな才能なんになるんやと思っていた当時。今となっては、確かにと思っているけど、勉強とは概念がちと違う。

 

そうして、不快感の元凶は姉がどうのっていうことでもなく、この厭味ったらしい気質が自分にもあるところ。これはちゃんと改めないといけない。という夢だったのだろうなと。他責にするのはよろしくない。

 

まぁ話を盛ることはない。盛るって、自分の主張したい感情なりなんなりを認めさせたいがために起こる心情だろうと予測するけど、僕にはそういう競争的な心情はほとんどない。

 

 

そう、僕が個人的なところで生きられるのって、ある程度競争が関係ないところに居られたところにあるからだろうなと。どんな田舎でも義務教育内では競争があって、勉強に関してはほぼ努力なんてしたことなかったし、それだけで一目は置かれる訳で。どんなに根暗でも。

 

小学校、中学校のときは容姿でやや責められた。顎が長いことで。骨格と肉付きの関係だと思うし、今は普通だと思う。思い出すのが、運動会か何かで大縄跳びをしていて、5回目の時に、「あご!」って掛け声をかけながら一斉に注目してくるシーン。精神がタフで良かった。というか、勉強できなかったらもっと大変だったろうから、勉強もできて良かった。

 

僕が集団での親交に不信感を持っている根っこはここにあるのか。集団怖い。

容姿で褒められてもあんまり腑に落ちないところもここにあるのかね。褒められる容姿なのかって言われると、微妙だけど、容姿の流行りなんて時代の流れによりけりなので。

 

 

さて、ここで唯識論に戻ってきて。

 

世界が自分の認識したイメージに過ぎないっていうのを自分の存在にしてみたらどうだろうという話。自分が思い出として識別できる記憶は、そう選んでいるだけとはという説。

 

今書いてきたところは、別に思い出でもなんでもない、ただの記録だけどこれだけ見たら、良く生き残れたなぁと思う。根本的に人間不信なのだろうなということは把握できる。もちろん人間には自分も含めて。

 

綺麗な識別ももちろんあるけど、なんとも制限された世界だったのだなぁって。

 

1人が好きになったのはある意味必然だろうな。

 

この文脈で言うと、自分と似ているから好ましいっていう好意にも嫌悪感が芽生える。

ただ、厳密に考えて、本当にまっさらな個人として相手が好ましいのかって識別するのも難しいところで。

 

ざっくりすれば、個人で在ることにちゃんと自覚がある人は好ましいけど、個人で在るために何が積み重なっているのかはそれぞれ歴史があって、その歴史に共通項が全くないかというと、きっとそんなこともなくて。

 

まず、自分の歴史を叙述できるほど客観化している人も珍しいし。

僕の歴史は、たまたま浮上してきただけ。これも日本史と西洋史読んでいるからかと思うと、勉強も捨てたものではないなと思われる。

 

世界に存在している自分は嫌いというか気持ち悪いけど、こういう文字世界で生きている分には良いのかな。楽しむためにはこういうところから離れる必要があって、どんどん理想的になっているというのはある。

 

でも、どれだけ言語化しても、書けないことは結局なくならない訳で。これこそが人生という気もして喜ばしい。

 

おしまい。

 

皆さん、良い夢を!