自分史

炒め物に使える食材がなんだかんだ高いから、超薄味の煮物にした。大根が昨日安くなったのと、人参が今日安くなっていたのと、しめじと豚肉。キノコは値段が安定しているからやたらと推されている。ピーマンは78円で安いと思ったら、100g単価という。初めて見た。

 

ほぼ素材の味だけどなかなか美味しい。顆粒出汁もみりんも酒も入れてないけど、なんとでもなった。キッチンペーパーの落とし豚で豚肉の油も取っているから余計に。あんまり評価は得られなさそう。もう少し煮込めばくったくたにになったろうけど、レンチン時短で柔らかい。

 

さておき。

 

人魚は、、、の本は読み終わってしまった。なかなか綺麗な文体で美味しかった。歯ごたえも柔らかい。明日からはパラレルワールド。小林さんだと、玩具修理者が好きなのだけど。

 

 

唯識論の続き。というか昨日の日記誤字がやばいな。お目汚しすみませぬ。格助詞が違うと意味が全然違う。理想の関係の所は、僕の容姿も精神傾向もどうでも良いけど何故か在る関係ということ。あとグルーピングでもなく。

 

の前に。そういえば、今日の夢は物凄い不快感を伴っていた。一日なんだか調子の悪さを引きずっていたし。誰が出てきたかというと、姉。

 

姉が魚介系のパスタを盛っていたシーンなのだけど、僕が何かを言うと、凄く嫌みたらっしく返答があって。僕は姉が嫌いなのだなと自覚した。むしろ女性性で一番初めに学習したのは母親ではなく姉だったのだろうなと原初の女性に対する恐怖心を思い出した。

 

家来契約書みたいなものも小学校低学年で書かされたし、私は頑張っているのに、然ばかり優遇されるみたいなことは頻繁に主張していた。あんまり聞いてなかったけど。母方と父方の祖父祖母がなんだかんだ守ってくれていた感。覚えてないけど、低学年期は結構な暴力にさらされていたんじゃないかと思う。僕が成長しだしたの高校入ってからだし。30センチくらいは伸びたような。

 

母親が怒鳴り散らす理不尽な人の象徴なら、姉は女性性の象徴。どれだけ頑張っても父方のおじいちゃんは勉強について認めてはくれなかったっていうエピソードを大人になって妹と3人で話している時に聞いたけど、どう考えても盛っているような気がしてなんとも。

 

ちなみに、僕は祖父に、お前は勉強の才能があるって言われた記憶がある。そんな才能なんになるんやと思っていた当時。今となっては、確かにと思っているけど、勉強とは概念がちと違う。

 

そうして、不快感の元凶は姉がどうのっていうことでもなく、この厭味ったらしい気質が自分にもあるところ。これはちゃんと改めないといけない。という夢だったのだろうなと。他責にするのはよろしくない。

 

まぁ話を盛ることはない。盛るって、自分の主張したい感情なりなんなりを認めさせたいがために起こる心情だろうと予測するけど、僕にはそういう競争的な心情はほとんどない。

 

 

そう、僕が個人的なところで生きられるのって、ある程度競争が関係ないところに居られたところにあるからだろうなと。どんな田舎でも義務教育内では競争があって、勉強に関してはほぼ努力なんてしたことなかったし、それだけで一目は置かれる訳で。どんなに根暗でも。

 

小学校、中学校のときは容姿でやや責められた。顎が長いことで。骨格と肉付きの関係だと思うし、今は普通だと思う。思い出すのが、運動会か何かで大縄跳びをしていて、5回目の時に、「あご!」って掛け声をかけながら一斉に注目してくるシーン。精神がタフで良かった。というか、勉強できなかったらもっと大変だったろうから、勉強もできて良かった。

 

僕が集団での親交に不信感を持っている根っこはここにあるのか。集団怖い。

容姿で褒められてもあんまり腑に落ちないところもここにあるのかね。褒められる容姿なのかって言われると、微妙だけど、容姿の流行りなんて時代の流れによりけりなので。

 

 

さて、ここで唯識論に戻ってきて。

 

世界が自分の認識したイメージに過ぎないっていうのを自分の存在にしてみたらどうだろうという話。自分が思い出として識別できる記憶は、そう選んでいるだけとはという説。

 

今書いてきたところは、別に思い出でもなんでもない、ただの記録だけどこれだけ見たら、良く生き残れたなぁと思う。根本的に人間不信なのだろうなということは把握できる。もちろん人間には自分も含めて。

 

綺麗な識別ももちろんあるけど、なんとも制限された世界だったのだなぁって。

 

1人が好きになったのはある意味必然だろうな。

 

この文脈で言うと、自分と似ているから好ましいっていう好意にも嫌悪感が芽生える。

ただ、厳密に考えて、本当にまっさらな個人として相手が好ましいのかって識別するのも難しいところで。

 

ざっくりすれば、個人で在ることにちゃんと自覚がある人は好ましいけど、個人で在るために何が積み重なっているのかはそれぞれ歴史があって、その歴史に共通項が全くないかというと、きっとそんなこともなくて。

 

まず、自分の歴史を叙述できるほど客観化している人も珍しいし。

僕の歴史は、たまたま浮上してきただけ。これも日本史と西洋史読んでいるからかと思うと、勉強も捨てたものではないなと思われる。

 

世界に存在している自分は嫌いというか気持ち悪いけど、こういう文字世界で生きている分には良いのかな。楽しむためにはこういうところから離れる必要があって、どんどん理想的になっているというのはある。

 

でも、どれだけ言語化しても、書けないことは結局なくならない訳で。これこそが人生という気もして喜ばしい。

 

おしまい。

 

皆さん、良い夢を!