孤独と個人

 

 

良い夢を! がやや口癖になっているにもかかわらず、自らの良い夢率は高くない。昨日は深夜1時に隣人がベランダで洗濯機を回し始めたから、雨音のアプリでなんとか寝入ったのが悪かったのか、親戚の集まりで従妹の集団への疎外感みたいなことが夢に顕在化された。自分がその輪に入りたかったように描写されていたけど、どちらか言えば、入らなきゃならないという同調圧力の方が嫌だったのかも、と、未だに引っかかっている。というか、むしろここが最後の引っかかりという気もする。          

 

僕はずっと独りになりたかったのかなぁと。独りというか個人か。親戚が集まれば、相手は従妹であり、叔父叔母であり、祖母祖父であり、知ろうとする前に役割が決まっている訳で。逆に、古臭い話、宗家の唯一の継承者だったし。全然継承していないけど。

 

いや、確かにどんな括りでも、役割が決まっていることは自他ともに関係に消費する思考とか感情は省エネできて楽だとは思う。諸々の他人を表する言葉は、元々区別のために生まれた言葉だろうけど、区別だけではなくなってくるだろうなと。もともとどういう意味合いをもっているかと、今どういう観念として使われているかは全く変わって良い。それが言葉の可能性というもので。

 

仏教の本読んでいたら、宗教っていう言葉はもともと仏教を指していたらしく、なるほどなぁって。憲法学で宗教というとだいたい神道が多いけど、これは、また別の歴史。あと、哲学も同じ時代に発明された言葉だとか。言葉の歴史というはなかなか面白い。まぁ、言った通り、言葉なんて遣う人が何を込めるかだし。

 

「ことばと意味」ではむしろ、単語はあんまり関係ないのではという話になっているけど。ことばは1つなのではないかって。たしかになんとなく分かる。でもこれって1つの側面しか見てないような。歴史的な学者さんに物申したい訳ではないけど、これは伝達とか思考の道具とかいうところしかみていなさそう。いや、あえてそこだけ書いたのだって言われそうだけど。

 

言葉って他人を括ることができるけど、自分も縛る。自分を縛っている人が他人も縛れるのかなぁと他人事的に思っているけど、実際どうなのだろう。他人に怒ることができるってこういうことなのだと勝手に納得している。

 

ただ、ここにも難しいところがあって。

僕は、自分が苦手なことってだいたいはただ慣れていないだけという持論があるけど、苦手な人に関しては一生慣れなくて良いなって思っている。これはあしらいに慣れたところで、何の意味もないという面もあり、個人的な人格としてなにも変化がないから。

 

むしろ、変化しないように制限することが他人とうまくいく作法なのではとまでも思っている。僕が他己観測で変化しているかと言えば怪しいけど、ここはあんまり関係ない。

 

主観的観測として、今が一番自由で、好きなように過ごしている。試験勉強していてスゲーなっていう人も居ないし、いちいち自分を制限しなきゃいけない関係もないし。

 

これってなんだろうと思うと、結局自責でしかない。

どういう訳か、関係があると不具合がある仕様。相対的にしか人を見られないと繋がっていると、その相手の相対的視点でしか反応できなくなる。

 

この欠陥はいったいどこからきているのか。

 

時間の使い方にバグが生じる。

まぁ、これは独りで過ごしている日常の時間が詰め詰めだからというのもあるかもしれないけど、相手の時間軸に合わせないと同じ時間軸で動けないし。

 

時間軸とかよく分からないかもしれないけど、関係における時間軸って、客観時間ではない。例えば、実家に帰ると時間の流れが全く違う。家の中に居る時は凄く重たい。遅いじゃなくて重たい。けど、自然は好きだから散歩とか墓参りする時は軽い。時間には早い遅いの他に重い軽いみたいなところもある。ない?

 

時間も言葉も突き詰めれば良く分からないな。

 

僕は、自分が誰かと幸せになりたいより、彼岸から、僕と接したことはある人をえこひいしながら、皆幸せだったら良いなって思うだけでじゅうぶんな人。

 

もう15年くらい前になるけど、当時一緒に寝てた人が起きてバイトに行くときに、ぽろっと、「今日は僕の番じゃないのか」みたいなことを言ったらすげーぷんぷんしていたのは未だに疑問。自分だけがしんどくて不公平だって感じたのだろうけど、この感情って刹那でしかないからバグったのだろうなと。まぁこの人も苗字が変わったことまでは知れる距離だったから、ちゃんと幸せになっていればよいなって思う。

 

祈りはしないけど。

祈りは完全な特別枠。まぁなんだかんだ、この人も全宇宙枠には含まれてはいるけど。

 

色々アウトプット不良だけど、ここまで。

 

 

では、皆さん良い夢を!

 

 

 

 

 

 

語用

もはや鍋の季節のような気温。秋は一瞬だ。春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。今日の夕暮れは美しかった。オレンジと紫のグラデーションの真ん中を飛行機雲が貫いていた。結局配色のセンスが一番凄いのは神様なのか。別に信じちゃいないけども。

 

さて。

 

気温は低くても天気は良かったから、何を思い立ったか、シーツを洗いながら布団を干しながら掃除機かけていた。特にやらなきゃならないと思った訳でもなく。その合間に朝ごはんはうどん。具材はなくていいわと、塩昆布少々、顆粒和風だし、醤油、砂糖、梅干し、生姜で柔らかめに作った。昼は親子丼。鶏むね肉と玉ねぎで、出汁にはなんとなくワサビを隠し味に。一般的な汁だくの親子丼が好きじゃない。なんとなく雑炊と似ていて。だからかつ丼が好きだったのかと。ということで、なるべく汁を抑えた親子丼。夜は、カットトマト缶と白菜としめじと舞茸のコンソメ、ケチャップウスター炒め煮がメイン。

 

でも、気温が低いとはいえ買い出し終わって帰って後に、シャツ6枚(1週間分の仕事着5枚とベージュ一張羅1枚)にアイロンをかけると汗が滲んだ。布団のシーツを被せるのも含めてかっきり1時間かかった。家事とは大変なものだ。もう少し効率的にできそうだけど、まだ練度が足りない。

 

こういうのが生活かぁとふと思った。「生活」という言葉は結構注目ワード。生活という概念に対する考察が始まる。

 

概念が漠然として広すぎるから捉えきれないけど、これを婚活とか就活とか部活と並べると、途端に分かりやすくなるよなと。そんなに大したものではない感。確かに生きるための活動と考えると仰々しいけど、日常も含まれているようだから、もっと範囲を絞って、最低限の生命を維持するための活動にしたらどうだろうとか。となると、生活という概念もそれほど大げさなものではなくなる。一般的な語用ではないだろうけど、家事とか料理とか諸々の別の概念が一緒くたになっているから分けてみようかというだけ。

 

日常と生活も別ものだと思われる。

切り分けるのはなかなか大変だけど、と、日常も生活もあってないようなものだろうと思っている僕が申しているから説得力の欠片もない。

 

でも、生活ってなんとく自縄自縛みたいな響きがある。日常は生活の俯瞰か。

 

この文脈でいうと、資格試験の勉強は現在の生活から脱するみたいな意味合いがありそう。生活が向上するかどうかは別の話だけど。生活の苦しさを他責にしている人はきっとどこに行ってもしんどさを見つけてしまう。

 

僕は生活より前に在る、「自分」という自縄自縛の概念を脱するために諸々しているのだと思う。結局、何処でも最低限上手く生きていけそうだから、生活についてはどこでも良い。

ただ、共同生活には向いてないよなぁというだけ。いや、ワンルームで同棲経験はあるし、18まで家族と共同生活はしていたからやってできないことはないけど、共同生活になった時点で自分が固定されてしまう訳で。まぁ僕のことをどうでも良いと思える人ならあるいは。

 

どうでも良いっているのもおそらく語用としては一般的じゃないけど、ちゃんと自他を分断できるかどうかという意味。自分の中にある相手の人格を更新可能性があると捉えることができるかどうか。

 

まぁ良いや。

 

ヘミングウェイさんが古典文学として残っている理由がなんとなく分かった。風景描写がとにかく綺麗。綺麗というか、普通に読んでいるだけなのに、否応なしに読書中の心象風景に色が付く。これって文章力とか表現力の問題なのかって思うくらいの圧倒感。古典はすげぇ。

 

色も文章も見ているだけでは流れているだけで、自分が観測したそれを反芻しないと意味がないのだろうと。何回か読むって理にかなっていてなかなか面白い。

 

 

知っていることと使えることは違うっていう概念はだいたい共通項だけど、自分もこれに含まれるってなったら、受け入れられるのはどれくらいの層だろう。

 

昨日の散髪帰りにたまたま、お母さんと小さな男の子が居て、お母さんがやたらと怒っていた図を見てしまった。帰り路も重なっていたからその後も見てしまって、お母さんがやたらとイライラしているだけじゃないかと。

 

怒りの嵐で育った身としては、怒気ってそのうち去るだろうと思うから、何の教育にもならないと思う。怒気の中で何を伝えても、怒気の方に注視するから、そのうち終わるだろうなとしかならない。だって、怒気って相手に何を伝えるためかというと、自分は怒っているぞっていうだけ。ただ、怒気の遣い方として、子供が命の危険がある行為をした時にピンポイントで遣うのはありだと思う。なんで怒られたんだろうって思考するために投げるという教育。

 

でも、成人同士の関係の中で怒気がなきゃならないのは、なんだかおかしいとも思わなくもない。全然大人じゃないじゃんって。

 

最後。

 

僕が他人の為に祈れるのは、という話をしようと思ったけど、日本語の助詞の不自由性で。

何というか、単純に限定するように表現するのは難しいなと。例えば、あなた「は」こうだって言ったら、相対的になるし、あなた「が」だと絶対的なように見えて、なんとなく他も居るけどみたいな雰囲気がある。限定された空間を示す助詞ってなさそうね。

 

おしまい。

 

 

皆さんそこそこな良い夢を。

 

 

 

 

 

 

観測値

 

 

昨日の日記の根本は、どれだけ論理的に見える言葉を尽くしても、生理的な生々しさが根源である言葉って、発信者の中では更新されることがないから、受信者としては受け入れるか拒否するかしかない。喰うか喰われるか。更新しようと思えばできるだろうけど、わざわざそんなことする人はほとんど居ないだろう。自分の本質の改変に近いし。

 

まぁ良いや。

 

 

今日は、なかなか縁というものの恐ろしさを実感した日。

 

ともあれ、今日はまぁまぁ活動的だった。論文試験の過去問1通書いていた。なんとなく、ここでの訓練が功を奏している感じ。型が決まっているから、型の中で何を書くかというだけ。型の中にあるマナーの量が凄まじいし、印象値みたいなところもあってなかなか大変な世界。

 

僕の修行の話はどうでも良いとして、何というか、言語論の本質みたいな発想の方が面白くて。今の時代、音感だけ分かっていれば容易く漢字に変換できるから、自分の手で書けない言葉もネットに載せることはできる。

 

例えば、掃除って言葉を手で書けるか。あと、拝啓とか敬具とか諸々。いや、別に実際書けるかどうかは問題じゃないっていう論も分かる。母親も読めるけど書けないって10年前くらいに言っていた。

 

ところで、僕がこれだけ書いていても、なんとなくちゃんと書けないフレーズがある。られるとかさ行とか。これって滑舌と直結している感。キーボードの感覚と自分の語彙はなんとなく繋がっている。

 

そんで、要は、言葉を道具としているか、自分のものとしているかっていうのは、この辺りにあるのではないかと思ってきて。僕は憂鬱は書けるけど檸檬は書けない。まぁ固有名詞なら書けなくてもあんまり関係ないようなきがする。ひらがなでも通じるし使えるし。

 

概念になると微妙になってくる。別に書けるからって知っているわけでもないし。

この辺りが難しいところ。定義を知っていることと操作できることは別物。言葉の定義なんて、どうとでも操作できる。言葉を信じている人ほどここが分かってない。

 

 

まぁ良いや。

 

日記に移る。

 

散髪に行ってきた。漫画のキングダムの話をしながら、毛量てんこ盛りって言われながら切って貰った。そうして、キングダム好きな人を集めて話し合いたいって言っていた。参加するためには復習しなきゃと思うけど、それほど考察する領域はない漫画だと思う。面白いのは確かだけど。趣味の1つでしかないとは言えない。1つのことを突き詰めることができない人。1つがあるとすれば、対象は自分だし。

 

そうして、帰り路の徒歩。論文過去問途中だったからそこの思考をしつつ、人間の感覚範囲についても考えていた。歩くと頭が回る。

 

人間の五感って、生きるためにはそれほど必要なかったはずのだいたい過剰なものだよなぁと。まず色覚で思っていた。人間が観測できる色って、他の動物からしたら圧倒的で、どういう思惑で創造されたのかって考えたら、色彩美を観測するためとしかならない。月の黄色、葉っぱの緑、花の紫を見るって生存には全く関係ない。

 

嗅覚は生理的なものと直結しているから、美とは関係ない。嗅覚鈍い人多い印象。こここそ生存と直結しているのだけど。

 

聴覚は、はっきり言って、他の動物より劣っているなぁと思っていた。音として認識できる領域は、他の動物と比べても狭そう。若い人しか聞けない音ってモスキート音で良かったっけ? これって、言葉としての音しか音と観測できないっていうのもありそう。ただ、音波って波だから、自分が音として意識できない波の影響はきっとある。

 

言葉も波だし、一番は人も波だということ。他人と関係するって、変な話海が無数にあることだと思う。

 

たまたま仕事で接触した先生の言語録で一番ええなと思ったのは「事象を繋げる」ってフレーズ。論理ってそういうことだろうなって。

 

僕も繋げたい人なので。

 

 

で、やっと本題だけど、自分の無意識というか、無意識が観測する世界に従属されてそうだ。なって思った本日。

 

新しい小説枠で、吉田さんのさよなら東京を読んでいて、名探偵シュロっていう人が出てきて、本名は棕櫚(これは書けない)ということでほーほーと読んでいた。これとは別に、夏目さんの「それから」が唐突に終わったから、次何読もうかなぁと思って我が家図書館を探ってたら、ヘミングウェイの短編集が出てきてこれにするかとなった。

 

そうして、ぱらぱらめくっていて、「雨の中の猫」っていうタイトルの編があって、面白そうって読んだら、棕櫚の木っていう表現があって、ここに対しては恐ろしすぎて鳥肌も立たなかった。おそらくこの短編だけは読んだことがあって、たまたま呼び寄せた小説なのだろうけど、自分の記憶で再現できない記録の吸引力。

 

シンクロニシティを否定する本も読んだけど、これって統計的に、そんなことはある確率が在るということだけど、棕櫚っていう単語が一致する確率はどれくらいなのだろう。

 

そういえば、数学のおさらいの本は、微分積分駄目だけど確率に入ったらすらすら読める。確率に対する体感は数学的観測と近いからだろうなって。

 

 

んで、吉田さんの本には鳥肌が立った。

 

後悔も希望の一種だよなみたいなところ。要は、可能性としてはこうであった自分像に対する憧憬が後悔と。

 

僕としても、後悔はなくしている。言い過ぎたとかぶっちゃけ過ぎたとかはその時の自分が選んだことだから、今の僕には感知できないこと。好きだって言ってしまえる人なら、そういう人だと当人が認識していたからだし、そこでの失敗はまぁそういうもんだろうなぁとしか。

 

 

結論的思考で言うと、人の人生は選択の連続だっていうのは正確ではない。

選択という言葉は他人事感があるから実感が伴わない。

 

ということで、言い直すと、人生は決断の連続だって評したらどうだろう。なかなか自分の人生が生生しくなると思う。

 

決断は自分にしかできないし。

 

最後。

 

吉田さんの小説には、諦めるっていう観念も出てきていた。自分を諦めるって大事だと思う。諦められない人が他人の足を引っ張るの。

 

僕は僕であることに諦めているから、人のことは正直どうでも良いところはある。

 

僕視点で言うと、自分が気に食わないなら、なんで自分を動かそうとしないで他人を動かそうとするんだろうって。それでは気に食わなさは一生拭えないのに。

 

おしまい。

 

皆さんがほどほどに満たされますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きてる実感

 

 

 

 

今週は労働時間が長かったから豆苗が安いというご褒美があった模様。豆苗に絹ごし豆腐のこま切れと鰹節をのっけたサラダ。新しいことができるのもご褒美の1つ。なんだかんだ昨日の日記の願望を叶えるナンプラー。初めて使ってみた。空心菜の茎の部分を塩コショウで炒めて、葉っぱ部分を加えて、ナンプラーを垂らして、なんとなく辛味成分の豆板醤を加えて炒め終わってから、カシューナッツを加えてエスニック? しかし、沸騰するナンプラーは臭かった。魚の腐敗臭なのかどうなのか。でも味は醤油に似ていて美味しいと思った。

 

ふと、くささの話。食材の臭みって、基本的には慣れてないからというだけ、セロリも駄目だったし、トムヤムクンに入っているパクチーも駄目ったし、ナンプラーに対する一瞬感じた嫌悪感もそう。魚醤は腐敗臭だから、生理的嫌悪感でやや違うけど。腐敗臭って単なる危険度のセンサーだし。

 

これを人間にするとどうだろう。僕は人の匂いを感じた時、同じくらい匂いを感じられていると思っている。タバコ吸っていても臭いは銘柄を推測できるくらい分かるから、吸ってない人は余計に、ただ、吸ってない人が匂いを放っていない訳でもない。

 

嗅覚は感情も思考も想起しないけど、生理的に厳しい匂いには皆敏感。

でも、この匂いへの感覚って、かなり本能的、というか肉体的なところに依っている。もう匂いの話はいいか。個人差の話だし。

 

ただ、頭皮の匂いの共通項は気になるところ。

まぁただの変態だけど、人の匂いは人の匂いでしかないよなぁと。嗅覚に感情が引きずられるのも分かるけど。

 

どちらかと言うと、匂いを嗅がれて嫌がっている態度(略

 

さておき。

 

 

昨日の日記のせいか、なかなか暴力的な夢を見た。

地元が凄くバイオレンスな治安が最悪になっていて、そこから離脱するという夢。夢というにはなかなか生々しい。だいたい覚えているけど、描写するには、まず世界観から書かないといけないから文字数がめんどくさい。あるシーンだけ切り取ると、逃れるために泳いでいて、水面の上に伸びている鉄筋の構造物をよじ登って、そこから飛び降りるとか。結局よじ登ったことは無駄だったって感想。ただ、体感として現実より生々しくて。

 

そもそも生々しさってなんだろう。これっておそらく生々しさをどこに置くかで当人がどこに生きているかが分かる、自己診断。

 

生々しさって、きっと生の実感と癒着がある。

 

細々言うと、自分の五感の中でどれが一番鮮度高いですかとか、夢時間と物理時間のどっちがとか、こうやって分析していくと、何が一番生なのかっていうのは自分が一番知っているはず。

 

僕は自分が生きているかどうかも別にどうでも良いし、痛覚とか観測はするけど、痛さで外が変わることはない。むしろ自分の五感での観測は自分の物だから、八つ当たりして代償を得ることもない。

 

怒りってだいたいは本当に怒れない何かへの代償と観測していいと断言したい。怒りでは世界は動かない。原動力としても効率悪いし。

 

ただ、体感として、風邪を引いたときはなかなか心細くなる。これって、自分が無理したしわ寄せで、お前には弱いところがあるのですよって体からの復讐。

 

 

んで、僕が生生しさを感じるのは何かっていうと、今ではないなって。今こうやってキーボードで打っている指の感触はあるけど、これは今なだけで、別に生だという体感はない。

 

つまり、生生しさっていう実感って、ある程度客観的でないと生じないだろうという問題提起。

 

例えば、僕が初めて演劇見に行った時の感触って、生生しく再現できる。出町柳と、今福なんとかだったかの間にある劇場に行った体感で、受付のお姉さんが、当日に行ったのに予約として割引になるようごにょごにょ相談してくれたシーンとか。

 

 

僕としては、記憶は劣化するという一般論の言い分は納得できないところがある。

まぁ酔っぱらっている時の劣化であれば、一般論と重なるけど。潰れていたら再現不可能だし。

 

この再現不可能性を飲まない人は強調するけど、まて。飲まないあなたは全ての日常を再現できるのかって返したい。結局どこかは選んでいて、ことさらここを強調する意味も分からんなと。

 

記憶を全て再現できるなら、全人類普通に天才だと思う。

自分が覚えていることを同じ体感をした人が覚えてないとき、これを体感を選ぶのは人それぞれだと思うのか、自分は覚えているのに相手は覚えてない(怒)とするのかどうか。

 

素朴な疑問としては、こういうとぎれとぎれの再現率の自分をどうやって自分としているのだろうと思う。相手に記憶を求める人限定だけど。

 

 

こういう意味で相手がどうとか思う人は、まず、自分をちゃんと捉えた方が良い。

これが修行なのかしら。

 

僕は相手が自分を見ている指標に合わすから、自分を心地良いと思う人にむささびの如く飛び移っている。ような気がする。

 

ついでに記憶の方がよほどなまなましいから、世界軸がズレている。

 

意味わかるかどうか知らんけど、物理的な時間軸での現実って、ただ在るだけだから、鮮明

な感覚軸とは別。

 

 

おしまい。

 

 

良い夢を!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

囚われ

今日はなんだか本を読んでいる時に文字が上滑りした。感情が波打っているなぁという観測。悪い意味で。でも最近あまりない感情だから、観察してみる価値がある。

 

の前に、ご飯は空心菜と鶏むねの中華出しウスター炒めと、きゅうりの塩、梅肉、鰹節の浅漬け。とフリルレタスとブロッコリースプラウトのサラダ。

 

空心菜美味しいなぁ。ナンプラーカシューナッツと炒めたい。

 

 

ともあれ。何が波打っているのかというと、今日仕事終わり間際で、ややこしいと評判の人に当たって、明日折り返しないといけないから嫌だなぁっていう感情かと思っていたけど、なにやらどうやら違う。自分の理解力不足で希望通りの答えが出せなくてもういいですって言われた別件についても感情的には残っているのだけど、それは別にどうでも良い。

 

なんというか、僕がそうなるかもしれない1つのパラレルワールド的現実化みたいなところ。

 

保留音楽で待たすときに、「保留でお待ちいただけますでしょうか。」って定型句を言ったら、「保留にするのは決まっているのだから、保留にさせて下さいだろう。」って。反射的に失礼しましたって返したけど。なかなか意地が悪いけど、正直この言い分は分からんでもないなって思ってしまった。僕もコールセンターに問い合わせた時に丁寧な言葉遣いなんてあんまり求めてないし、さっさと保留で確認して欲しいのはある。ただ、僕はそんなことあえて

発信はしない。

 

なんというか卑屈な人だと思った。先生曰く悪意を感じるという評価だけど、それも分かる。相手の弱い部分というか、応えにくい部分を的確について、ぎりぎりのところで攻撃するところ。個人的には悪意というより、サイコパス係数が高いのではなかろうかと思う。表層的には明日何を突っつかれるかを想像するとしんどいなぁという感情だと思ったけど、観察するとどうも違うのは。

 

僕も逆の立場だったら、そうなりうるだろうなと。やるかやらないかは別として、僕もサイコパス係数は高いし、良いところを見れるっていうことは、悪いところ弱いところに視点を移せば、いくらでも見える訳で、生活を楽しむ方向を攻撃に転換することだってきっとできる。

 

僕は係数高いだけで典型的なサイコパスの特徴である能力値は高くないけど、なかなか不毛な生き方だと思うと、なんとも共鳴してしまったらしい。自分の本質の嫌な部分を凝縮したような振る舞いだったから。そんなことやっていたら一生満たされなさそうだなぁって。

 

同情はしないようにしているけど、そういうことなのだろう。

だいぶ繋がってしまった。

 

先生が合わないと評するのも一種の同属嫌悪かもなと思わなくもない。(屁)理屈で人を御していたみたいなこと言っていたから、要は、相手がイエスとしか言えない方向に持って行く話術がかち合うのだろうなって。

 

 

なんとはなしに、僕の本質みたいな話になったな。

どっちが本当なのかではなく、どっちを選ぶかという話。僕はハッピーで居た方が面白いから、綺麗なものとか面白いものばかりを見ている。

 

ただ、自分が本当に底から攻撃しようと思った時の攻撃力は凄いだろうなと想像している。想像だけなら良いけど、常時と戦時で、戦時は知らないし、やったことない。と思われる。

 

 

係数は高いけど、違いは、サイコパスって結局は世俗的価値観に依存しているところ。世 俗的な価値観として悪とすることを平気でするとか、道徳的なハードルを平気で越えるとか。

 

僕はマナーとかのルールはどうでも良いと思っているけどちゃんと擬態するし、道徳的ハードルも関係ない、自己完結型サイコパス

 

僕が嬉しいとか有難いと思う基準は、世俗からしたら随分ズレがある。

そもそも今生存できているのがたまたまだから、なるべく場所を取りたくないし、たまたま交信したことが有難いし、これが変わってくるのが、当たり前とされたとき。

 

別に日常に含むことは構わないけど、どこかの定点で自分の人格が固定化されるのは窮屈になる。

 

で、なんだっけ、出逢った人すべからく感謝の念で見ているサイコパス

 

 

おしまい。

 

 

良い夢を!

 

 

羽休め

 

月初+増税の関係でなかなかの忙しさ。結構楽しい。残業も時間も決まっているし、限定された極限状態は鍛えられていい。限定された極限状態といえば、論文試験も頭が沸騰して楽しい。2時間以内に事例問題読み解いて、自分の知識の引き出しから適切な道具を取り出して、どれくらいの分量でまとめるか決めて、時間制限ぎりぎりまで書き続けるという。まだまだ足りてないスキル。

 

あと、どういう経緯か分からないけど、お風呂に入って本を読んでシャワー浴びて出てきたときに何時何分かだいたい分かるようになった。2分以内の誤差で。今日はちょっと早めに読んだから、9時35分から40分の間、いや40分だなとの目測。38分だった。

 

これは時間に追われているというより、むしろ逆で。相対的時間なんてどうでも良いから、主観的時間と比較をする回数が増えて、自分がどれだけの主観的時間を過ごしたら相対時間はどれくらい流れているかということが観測できるようになっただけ。本日帰宅して時間を見たら8時7分で、お風呂を溜めながら、着替えて洗い物して、豚肉と小松菜ともやしの炒め物、きゅうりの浅漬けの準備をして、お風呂入れるようになったのが830分だった。極限状態。やればできる。

 

まぁ良いや。

 

増税の影響だろうけど、スーパーはやたらと広告の品を強調している。なんとなく紛れるまで購買意欲をそがないようにしようってことで、まぁ正しいし有難いけど、キノコばっかり安いのがなんとも。きのこ好きだけどさ、値段トータルであまり変わってないじゃないかと。オリーブオイル安かったのはラッキーだった。1リットルのやつ。

 

節約の話なのかなんなのか、スーパーでは1円単位で気にするのに、他ではそこまで気にしないのはなんでだろうと前に聞いたのを思い出した。この感覚は分からないでもない。今一瞬分析してみたけど、食材を買うことって権利じゃなくて義務的な側面があるのかなと。義務であればなるべく軽減させたい訳で。同じ義務でも統一感がないというのも、頻度というところにあるのかも。

 

とはいえ、人の統一感がないのは当たり前の話だから誰がどんなに統一感がなくてもその人の中にあるだけ気にならない。問題はその統一感のなさが外への要求になったとき。個人レベルなら、応えるから応えないかは相手次第だろうけど、社会レベルならよく分からないことになる。

 

これって要は、他人を決めるなら自分が決められても受容するのかとか、自分が社会の被害者と評するなら、自分が社会的に誰かの加害者になっていることも受容するのかという話。広く語るなら、そこには自分も含まれているのだから他人事にしてはいけない。

 

抽象的になってきた。

 

ここでの結論は、要求は問題ないけど、それが返ってくるかどうかとは別の話ということ。

僕は要求されると返さなきゃって義務が生じる埃をまだ被り気味だから、あ、これが埃かとは認識できてきた。昨日の他人軸という皮をかぶった自己中心的な人格とも繋がっているけども。

 

だからだろうな、僕は自分に要求してこない人に惹かれる習性がある。

教えて欲しいならちゃんと頭を垂れるとか。

 

この世で何かを否定するほど簡単なことはないと思う。既存のルールとか他人の穴を見つけて避難することは、自分が上がった気分にはなれるけど、当人の位置は全く向上していないという。

 

でもそうしないと生きていけない精神性も分からなくもなくて。

どういう違いなのかって考えると、当人が自分を諦めているからではなかろうかと。そんで、諦めるのも能力値というより、原初の感情とか認識に依っているような。

 

人とはなんと複雑な存在か。

脳の容量圧倒的なのに蟻の分布とあんまり変わらないようだし。

 

 

ところで、今日、帰宅時間が遅れたのは、新しい小説を探していたから。読んだことない人のを買おうと思って、時間がおしてきたところで選んだ、「おやすみ、東京」。

 

おやすみにも東京にも惹かれなかったけど、読んでみたら当たり臭い。カラスの生態を気にしまくる成年とか、びわ泥棒とか出てきて楽しい。カラスの生態を気にしている奴がここにも居たかと。カラスの知能水準は、ピンポイントだったら人間より高そうと思っている。びわも実家で現物あったし、なんとなく思い入れが。

 

びわの味って、どう言語化できるかというと難しい。甘いけど野生だから別に糖度はそこまで高くないし。でも、イチゴみたいに酸味もなかったな。もっと難しいのはアケビ。存在の認知度自体も低いし、粘度もなかなかで、一見食べる気がしないフォルムだし。

 

 

最後。

 

僕があんまり人に嫌われない理由を分析してみた。別に参考にできることではないという注釈付きで。

 

前提は、他人のことはどうでも良いと思っている。

このどうでも良いは、自分がよければ他人がどうなっても良いじゃなくて、自分が欲しているものをもっている人と自分を繋げないとか、自分が誰かより優れているとしても、それで自己評価に換算しないとか。

 

 

あとは、他人と関係するときに、肯定的な側面ばかり見つけるとか。

 

ただ、僕は聖人じゃないから、他人を全く否定しないことはなくて、自分を否定してくる人にはそれなりの防衛をしていたのだろうなというのはある。否定はしなくても、あなたはこういう人だと僕の枠を決める人に対しては鏡のようにふるまう。

 

 

結局止まり木で良かったのかという感じ。

まぁ昔の止まり木とは精神の具合が随分違うから、向上はしたのだろうけど。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

観察眼

一般的なクールビズは9月までで、会社に聞くのを失念していたからジャケット着てネクタイを鞄に隠してビクビクしながら行ったら、全然そんなことなかった。ただ暑いだけ。オフィスカジュアルだったのだっけ、いや、でも最初6月にネクタイして行ったらクールビズって言っていたような。

 

びくびくしていたのは、去年某事務所の時に、10月になったからネクタイしなさいって急に若干嫌みっぽく言われたことから。その後依頼人によっては気になる人ってフォローしていたけど、本当に客に関係あることだったら前もって報知するべきではと思った。まぁ教訓をもって学習させるっていう習慣がある世界なのかも。

 

どうでもどうでも良いけど、自分軸と他人軸という分類を見た。人は分類が好きだなーって思いながらよんだけど。要は、自分軸は自分勝手で言葉で言われないと分からないって思っている層で、他人軸は常々空気を読んで、共感とか空気に合わせるのが得意だとか。

 

でもこれって受信側にしたら、これで良いかもしれないけど、発信側から考えると、軸は逆転する。自分に要求とか伝えたいことがあるなら言葉が一番簡明で、これは他人のためを考えていると言えるし、言葉じゃなくて察して先回りしろよっていう伝達方法は完全に自分軸。そもそも受信側の空気を読んでいるっていう認識もややずれているような気がするけど。自分が読んでいるのだからあなたも読めよって結局自己至上論臭い。

 

僕はというと、受信側ではあまり言葉本位でも空気本位でもないような。何を見ているかもあんまり定かでない。なんとなく暫定的にしか。発信側そのように認識されることはほぼないから、あまり察せられないように過ごしている。まぁこれもいつまでか分からないけど。

 

ともあれ。

 

昨日の日記の自分のずれというのは、やや言語が不十分だった。

本当の人格というのは不正確で、感情の源泉みたいな部分のこと。特に怒りが問題だから怒りに限定されていたけど。よく怒る人でも、本当に怒る対象には怒れず他に発散しているならば、どれだけ怒っても体の不具合が改善されないとか。

 

要は、感情表現が豊かな人が、当人の根っこの感情とちゃんと向き合っているかというと、そうも言えない。特に怒りが問題となるのは、怒りの本質が自分に向かっているものだからだと思う。

 

感情って、自分と世界のずれをどう認識するかだもの。

 

ひぃぃ三連星が楽しいなっていうのも、文章が好きな人のつぶやきがいちいちかわええとか、自分と同じ煙草の銘柄を買うのがいじらしいなとか、なんとなく一目置かれているなっていうところを認識した方がハッピーハッピー。

 

思考と感情を一緒くたにしている人は多いけど、神秘修行で、自分だけの時間を作って自分の思考と感情を観察するというのは、別に超感覚的世界を目指してなくても大事だと思う。自分がずれるのではなくて、ずれた自分が鮮明になる。負の感情も、まぁそんなことも考えたり感じたりしているのかって俯瞰できる。俯瞰できるからとて、コントロールできるかというのは別問題だけど。

 

好意は結構垂れ流しているか。

自分の利にならなさそうな限りは。例えば性欲の発散とか。

 

感情は共鳴して増幅するみたいなところもあるから、自分の感情が自分だとするのはなかなか決断しかねる。日記上の自分が自分だとしてしまえると一番しっくりくるけど、これは今書いているからだし。

 

そういえば、「今」について。

 

僕は、今のところ時間は流れていない派寄りだから、記憶力とか暗記力もあんまり信じなくなった。これって力っていうよりは、今っていう感覚を過去に延ばしている。例えば、今日のご飯はどういう順番でどんな味付けしてから遡って、今日読んだ本がどういう内容だったかとか仕事がどうだったかみたいなことは書こうと思えば凄い細かく記述できるのだけど、これって、記憶というカテゴリーをなくしたからだと思っている。

 

年譜は分からないけど、自分の中では今のように再現できる感情とか出来事は、記憶ではないように思う。再現しているとき、僕はここの時空にはいない。

 

だからあまり再現できないように酔っぱらっているのか、はさておき。

時間の感覚がおかしい。

 

あんまり壮大になってもいけないので、本の話で納めるか。

 

パラレルワールド読み終えた。何日で読み終えたかはカウントできないけど、おそらく1週間くらいか。面白かった。終盤はワクワクとかヒヤヒヤしながら一気読みしたから、今日の工程がちょうど20分ズレた。でも、SFとしてどうなのかっていうと、映画のバタフライエフェクトとか、アニメの時をかける少女とか、著者忘れたけど夏への扉とか、の方がワクワクした感。まぁタイミング的に合ったのだろうな。このタイミングにしかきっと読めていない。次はどうしようかな。

 

そうして、ヒヤヒヤ感だと、夏目さんの「それから」の方が良いところで止めている。三人組で仲良かった男女男で、男の主人公が残りの男女結婚をあっせんしたのに、主人公と女性は両想いで、この時代の強固な結婚制度の中で、男と男が話し合いをしているシーン。確かにこの女性はあなたの所有だ、しかし心は誰にも所有にはならないっていうフレーズが、結婚とは男が女を所有するという観念が出ていてなかなか。

 

でも、結婚にこの観念をもっている人は素朴に多いと思う。お互いに。

部分的な所有権っていう意味で。もともとそういうものだし。例えば、貞操の独占とか。

 

 

 

あと、同じ東京大学出版でも、日本史より西洋史の方が読みやすいのは、日本史だとどうしても著者の価値観が出てしまうところかなと思う。日本史、すなわち自分の民族史だから、どれだけ客観的に語ろうとしても、自分が思う日本史感っていうのは拭えない。西洋史の方が心なしか文字数多いし。だから、外国の人が研究した日本史とか日本の民族史の方が客観的なのかもしれないと思って、日本語では情報量に限界があると思って、英語もちまちま継続している。

 

なぜに今日文字数こんなに増えているのだろう。

 

最後、瞬読が気になっていて少し立ち読みしたけど、なんというかそんなに手っ取り早くできるものはないなって思っただけ。

 

時短できるようになるためには時間をかけないといけないというのが真理で、インスタントを求めること自体が、他律的

 

こういう意味だと経験則を至上とする考えた方も分かる。

 

まぁ良いか。

 

寝まする。

皆さん良い夢を!