観測値
昨日の日記の根本は、どれだけ論理的に見える言葉を尽くしても、生理的な生々しさが根源である言葉って、発信者の中では更新されることがないから、受信者としては受け入れるか拒否するかしかない。喰うか喰われるか。更新しようと思えばできるだろうけど、わざわざそんなことする人はほとんど居ないだろう。自分の本質の改変に近いし。
まぁ良いや。
今日は、なかなか縁というものの恐ろしさを実感した日。
ともあれ、今日はまぁまぁ活動的だった。論文試験の過去問1通書いていた。なんとなく、ここでの訓練が功を奏している感じ。型が決まっているから、型の中で何を書くかというだけ。型の中にあるマナーの量が凄まじいし、印象値みたいなところもあってなかなか大変な世界。
僕の修行の話はどうでも良いとして、何というか、言語論の本質みたいな発想の方が面白くて。今の時代、音感だけ分かっていれば容易く漢字に変換できるから、自分の手で書けない言葉もネットに載せることはできる。
例えば、掃除って言葉を手で書けるか。あと、拝啓とか敬具とか諸々。いや、別に実際書けるかどうかは問題じゃないっていう論も分かる。母親も読めるけど書けないって10年前くらいに言っていた。
ところで、僕がこれだけ書いていても、なんとなくちゃんと書けないフレーズがある。られるとかさ行とか。これって滑舌と直結している感。キーボードの感覚と自分の語彙はなんとなく繋がっている。
そんで、要は、言葉を道具としているか、自分のものとしているかっていうのは、この辺りにあるのではないかと思ってきて。僕は憂鬱は書けるけど檸檬は書けない。まぁ固有名詞なら書けなくてもあんまり関係ないようなきがする。ひらがなでも通じるし使えるし。
概念になると微妙になってくる。別に書けるからって知っているわけでもないし。
この辺りが難しいところ。定義を知っていることと操作できることは別物。言葉の定義なんて、どうとでも操作できる。言葉を信じている人ほどここが分かってない。
まぁ良いや。
日記に移る。
散髪に行ってきた。漫画のキングダムの話をしながら、毛量てんこ盛りって言われながら切って貰った。そうして、キングダム好きな人を集めて話し合いたいって言っていた。参加するためには復習しなきゃと思うけど、それほど考察する領域はない漫画だと思う。面白いのは確かだけど。趣味の1つでしかないとは言えない。1つのことを突き詰めることができない人。1つがあるとすれば、対象は自分だし。
そうして、帰り路の徒歩。論文過去問途中だったからそこの思考をしつつ、人間の感覚範囲についても考えていた。歩くと頭が回る。
人間の五感って、生きるためにはそれほど必要なかったはずのだいたい過剰なものだよなぁと。まず色覚で思っていた。人間が観測できる色って、他の動物からしたら圧倒的で、どういう思惑で創造されたのかって考えたら、色彩美を観測するためとしかならない。月の黄色、葉っぱの緑、花の紫を見るって生存には全く関係ない。
嗅覚は生理的なものと直結しているから、美とは関係ない。嗅覚鈍い人多い印象。こここそ生存と直結しているのだけど。
聴覚は、はっきり言って、他の動物より劣っているなぁと思っていた。音として認識できる領域は、他の動物と比べても狭そう。若い人しか聞けない音ってモスキート音で良かったっけ? これって、言葉としての音しか音と観測できないっていうのもありそう。ただ、音波って波だから、自分が音として意識できない波の影響はきっとある。
言葉も波だし、一番は人も波だということ。他人と関係するって、変な話海が無数にあることだと思う。
たまたま仕事で接触した先生の言語録で一番ええなと思ったのは「事象を繋げる」ってフレーズ。論理ってそういうことだろうなって。
僕も繋げたい人なので。
で、やっと本題だけど、自分の無意識というか、無意識が観測する世界に従属されてそうだ。なって思った本日。
新しい小説枠で、吉田さんのさよなら東京を読んでいて、名探偵シュロっていう人が出てきて、本名は棕櫚(これは書けない)ということでほーほーと読んでいた。これとは別に、夏目さんの「それから」が唐突に終わったから、次何読もうかなぁと思って我が家図書館を探ってたら、ヘミングウェイの短編集が出てきてこれにするかとなった。
そうして、ぱらぱらめくっていて、「雨の中の猫」っていうタイトルの編があって、面白そうって読んだら、棕櫚の木っていう表現があって、ここに対しては恐ろしすぎて鳥肌も立たなかった。おそらくこの短編だけは読んだことがあって、たまたま呼び寄せた小説なのだろうけど、自分の記憶で再現できない記録の吸引力。
シンクロニシティを否定する本も読んだけど、これって統計的に、そんなことはある確率が在るということだけど、棕櫚っていう単語が一致する確率はどれくらいなのだろう。
そういえば、数学のおさらいの本は、微分積分駄目だけど確率に入ったらすらすら読める。確率に対する体感は数学的観測と近いからだろうなって。
んで、吉田さんの本には鳥肌が立った。
後悔も希望の一種だよなみたいなところ。要は、可能性としてはこうであった自分像に対する憧憬が後悔と。
僕としても、後悔はなくしている。言い過ぎたとかぶっちゃけ過ぎたとかはその時の自分が選んだことだから、今の僕には感知できないこと。好きだって言ってしまえる人なら、そういう人だと当人が認識していたからだし、そこでの失敗はまぁそういうもんだろうなぁとしか。
結論的思考で言うと、人の人生は選択の連続だっていうのは正確ではない。
選択という言葉は他人事感があるから実感が伴わない。
ということで、言い直すと、人生は決断の連続だって評したらどうだろう。なかなか自分の人生が生生しくなると思う。
決断は自分にしかできないし。
最後。
吉田さんの小説には、諦めるっていう観念も出てきていた。自分を諦めるって大事だと思う。諦められない人が他人の足を引っ張るの。
僕は僕であることに諦めているから、人のことは正直どうでも良いところはある。
僕視点で言うと、自分が気に食わないなら、なんで自分を動かそうとしないで他人を動かそうとするんだろうって。それでは気に食わなさは一生拭えないのに。
おしまい。
皆さんがほどほどに満たされますように。